『ポートピア連続殺人事件』を思い出した
SNSは時間つぶしの手段。多くの人がそう思ってPCやスマホの画面を見ているはずだ。誰かがアップする風景や食事の写真や動画、独り言、広告やニュース。私たちはそれらの情報から情報へと、脈絡なしに気まぐれにジャンプしていく。役に立つ情報もあれば、無意味なものもある。
画面に没頭して、気が付いたらけっこうな時間が過ぎていて、後ろめたい気持ちになった経験が誰にもあるだろう。この時間を使ってもっと生産的なことができたかもしれない、と。しかし、孤立した点と点を結ぶ文脈を創造できれば、それは豊かなものになるはずだ。本作が新しい視点によるストーリーテリングを示してくれたように。私たちは、このSNSの時代や環境にふさわしい文脈・ストーリーテリングを発明するべきなのだ。
この映画を観ていて、ビデオゲームの黎明期、1983年に発売されたソフト『ポートピア連続殺人事件』(ファミコン版は1985年発売)を思い出した。当時は今以上に、ゲームは暇つぶしのためのメディアだと思われていた。しかし「ポートピア」は、そこに人間のドラマと意外な真犯人を描くことで、ゲームにもストーリーテリングが可能なのだということを教えてくれた作品だった。その後、現在に至るまで、ゲームはその可能性の裾野を広げてきた。それらに触発され、薫陶を受け、多くのクリエイターが生まれた。それはゲームの領域にとどまらず、映画、音楽、小説、コミックとあらゆるエンタテインメントに影響を与えてきた。
私もアニーシュ・チャガンティと同じ未来を見ている
『search/サーチ』がみせてくれた「発明」は、映画だけでなく、SNSの時代のストーリーテリングを更新してくれるかもしれない。
実は、わたしが現在取り組んでいる『デス・ストランディング』というゲームもまた、この時代における繋がりをテーマのひとつにしている。モニタの奥での繋がり、外での繋がり。繋がっているようで孤立している人々や社会や国家。それらを繋ぐ現代のストーリーテリングに挑んでいる。
年齢も国籍も人種も違うが、アニーシュ・チャガンティという若い才能が、自分と同じ未来を見ているような気がして、どこかで繋がっているような気持ちになった。
映画を観終わって、試写室から出るとスマホを取り出し、私はアニーシュ・チャガンティのアカウントをサーチした。その煌めく才能と繋がるために。