「城之内のことは随分走らせました。柴田は“五輪の選手になるわけじゃない、俺はプロ野球選手なんだ、走らなくていい”ずっとそんな感じでしたね」

 読売巨人軍の日本シリーズ九連覇、いわゆる“V9”達成のウイニングボールを手にしながら、鈴木章介はV9戦士達の素顔を語り始めた。

 鈴木は1964年東京五輪に陸上10種競技で出場し、その翌65年から川上哲治に請われて読売巨人軍のランニングコーチ、現在で言うトレーニングコーチに就任した。コンディションを整えるためにトレーニングコーチをつけることは、現在のスポーツ界では常識である。しかしそんな前例が無い当時、“野球選手は陸上選手じゃない”“なんで走らなきゃいけないんだ”、選手からだけではなく、新聞記者からもそんな疑問符がつけられたという。

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 だが鈴木は、現代と遜色のない選手個別のトレーニングメニューを組んで巨人V9に大きく貢献し、79年まで巨人を影から支え続けた。V9達成のウイニングボールを未だに鈴木が所有していることからも、如何に選手達からの信頼が厚かったのかがわかる。その指導法の原点はどこなのか、そしてなぜ巨人軍のコーチをやることになったのか。

 昨年、64年東京五輪出場選手達へのインタビュー企画で、鈴木に話を聞く機会があった。もし東京五輪に出場していなかったら、鈴木章介の人生がプロ野球と交わることはなかったのかもしれない。

鈴木章介氏が所有していたV9達成時のウィニングボール ©カルロス矢吹

巨人にコーチとして入団した経緯

 鈴木は静岡県浜松市出身。中学2年生から陸上競技を始め、元々は棒高跳びの選手であったが、練習の一環として円盤投げなど投擲種目もトレーニングに取り入れていた。早稲田大学入学後、本格的に10種競技に転向。その後すぐにアジア大会に出場し、日本のホープとして東京五輪出場が確実視されるようになった。大学卒業後は大昭和製紙(現:日本製紙)に入社し、陸上部に所属。10種競技日本記録を更新し、日本代表として62年アジア大会に出場した。だが、63年に足の甲を骨折し、東京五輪には間に合わせたものの、怪我の影響もあってか15位に終わる。

 そして五輪終了後、鈴木は読売巨人軍にコーチとして入団することになるのだが、これは早稲田が繋いだ縁であった。

「当時巨人で打撃コーチをしていた荒川博さんや広岡達朗さん、早稲田OBの野球選手が練習でグラウンドに来ることがあって、一緒に走ったりしていたんです。終わった後に荒川さんの家ですき焼きをご馳走になったり。足を折った時も、巨人の嘱託医に荒川さんが連絡してくれて診てもらえたこともありました。東京五輪が終わった後、荒川さんから“浜松球場でオープン戦をやるから来なさい”と言われて、行ったら川上さんがいて。“キャンプで陸上競技のコーチに選手を鍛えてもらうと、筋力も強くなり、脚も速くなる、怪我も少なくなっている。だから、専任で一年通して選手を見てもらえないか”そう言われたんです。

 五輪が終わったら会社に残って仕事を覚えるつもりだったんですが、引退した選手に新しい道を開くことになるかもしれないと思って、コーチをやることにしました。ただ、最初はみんな慣れてませんから、やらせるまでが大変だったんです。だから納得させるために、僕も先頭に立って一緒に走ってました。それをやらないとプロの選手はついてこない。10種競技の選手だから、そう簡単には負けませんよ。

 最初はみんな一緒のメニューでやらせてたんですけど、川上さんから“プライドが高い選手、みんなの前で怒っていい選手、色んな選手がいるから、選手の性格や動作を見るコーチにならないとダメだよ”って言われて、それを活用しました。選手は十人十色、130くらいのトレーニングを考案して、一人ずつメニューを組むようになりましたね」

トスを上げる鈴木章介氏