「失礼します」。研究室のドアをノックする音がする。あれ気づかなかった、もう約束した時間になったんだ。もちろん、入っていいよ。
新年度もはじまってもうすぐ2か月になろうとしている。大学4年生にとっては今が就職活動のピーク。そろそろリクルートスーツにも慣れ、筆記試験にまた、最終面接に忙しい日々を過ごしている頃である。そしてそれは同時に彼らにとっては、自らの人生の大きな分かれ目となる時期でもある。経団連の会長自ら「終身雇用はもはや維持できない」と明言する今日においても、多くの人にとって最初の就職先の選び方は、彼らのその後の人生を大きく左右する事になるからだ。
そしてだからこそ、このシーズンになると、大学院専任教員である筆者の研究室にも、時おり、学生達が訪れる事になる。そう大学生の中には、このタイミングで大学院受験を正式に決定し、下見を兼ねて志望する大学院や指導教員の元を訪れる人もいるのである。学部とは違って、専門性の高い大学院は良くも悪くも指導教員との距離が近く、その選び方で何が学べるかが大きく変わってくる。学生さんには近い分野に見えても、少し専門が異なれば教える事すら不可能な分野も少なくない。こいつは一体どんな奴で、どんな事を教えてくれるのか。だからこそ、将来の大学院生にとって、指導教員の見極めは、時に就活生にとっての会社選びと同じくらい重要だ。「学部は大学のネームバリューで決めるけど、大学院は指導教員で決めるものだ」とあるとは、筆者の親しいアメリカの研究者の言葉であるが、全く同感だ。
そして、この時期の学生達との顔合わせの重要さは、教員の側にとっても同様だ。自分が指導できない分野の学生を受けいれても、指導教員も学生も不幸になるだけだからである。とはいえ、厄介な事もない訳ではない。なぜならこの段階では必ずしも、学生が研究したい事がはっきりしていない事も多く、またやりたい事がある程度決まっていても、学生がそれを教員の側に上手く説明できるとは限らないからだ。だからこそ、大学院担当教員の側も、学生さんとの話に時間を割き、彼らが何をやりたいのかを、一つ一つ丹念に聞いて行く事になる。
とはいえ、それは嬉しい作業である。だって、学生さんが自ら、数多くいる大学教員の中から、自分を将来の指導教員候補に選んで来てくれているのだから。その中には筆者が書いた本や論文を沢山読んで準備してきた人もいれば、ウィンドウショッピングさながらに、余り調べもせずに飛び込みで研究室にやってくる人もいる。その中には、韓国政治研究者である筆者の研究室に来て韓国語の本の山を見て、「先生、ハングルが読めるんですか」という学生もいるくらいだ。それでも一向に構わない。何故ならここからこそが教員の腕の見せ所だからだ。
研究者を志望する学生がやってきた
さて、今日の学生さんはどんな人だろう。研究室にかかっている、オリックスのユニフォームの存在には気づいてくれるかな。今かかっているのはお気に入りの2015年のサードユニフォームなんだけどな。
「先生、僕、研究者になりたいんですが」
ほら来た。これ、相談の中で一番「重い」奴や。
良く知られている様に、昨今の大学生の就職状況はとても良い。その原因が人口減少による人手不足の為か、はたまた政権が自ら誇るようなアベノミクスの成果なのかはさておき、あたかも一昔前の「就職氷河期」が嘘だったかのようである。うちの大学院の学生も、その三分の二程度は博士後期課程(いわゆる博士課程)には進学せず、博士前期課程(いわゆる修士課程)を終えた後、つまり修士を取ってから、社会に出る。この大学院に勤務して22年、もともとうちの大学院で、修士を取ってから社会に出る学生の就職は、過去に自分の指導生で就職活動に失敗して留年した修了生が一人もいないくら良い状態だ。そしてそんな過去の修了生と比べても、近年の学生の就職状況はとびきり良い。だから、正直、今年の博士後期課程に進学しない学生の就職についても、自分はあまり心配していない。
しかし、それは博士後期課程に進学し、博士号を取得し、研究者の道を志す学生にとって全く異なるものとなってくる。ときおり新聞等でも取り上げられる様に、現在の若手研究者の就職状況は極めて厳しく、40歳を超えても大学教授はおろか、助教の地位に就く事すら困難な状況だからである。事実、学界やマスメディア等で華々しく活躍する若手研究者の中にも、大学では非常勤講師や任期付きの教員ポストでどうにか食いつないでいる人も珍しくない。
だから正直、将来の安定を考えれば今の日本で博士後期課程に進学し、研究者の道を目指す事は、あまりお勧めしない。とはいえ同時に研究者の道を志し、研究を望む人に教育を施し、経験を積ませるのは、大学院担当教員としての職務でもあるから、リスクを十分に理解した上で、それでも博士後期課程に進学を希望する人の道を阻む事のも筋違いだ。だから、研究者を志望する学生には、そのリスクを丹念に説明し、それでも研究者の道を進む気があるのか否かを、繰り返し確認する事になる。