もし、久慈がジャイアンツに加入していたら
1939年8月19日。函館太洋は、久慈自らが編成し育成した「札幌倶楽部」と円山球場で対戦をする。久慈は5回からファーストの守備についていた。1-2でリードされた7回。ノーアウト2塁のチャンスで回ってきた打席は、敬遠だった。
監督としても出場していたため、次の打者へと指示を出そうとホームベース付近で振り向いた瞬間、札幌倶楽部の捕手が2塁へ牽制をしようと球を投げた。送球は久慈の右こめかみ上に直撃した。
ヘルメットをしていなかったのである。帽子は被っていたのだが、ヘルメットがそもそも日本に普及していなかった。ベーブ・ルースですら着用していなかったようだから。
頭蓋骨破損による脳出血。治療の甲斐なく、2日後に久慈は逝去する。40歳の若さだった。
棺を函館まで送るため、臨時列車が運行された。途中の停車駅には多くの野球ファンが押し寄せた。葬儀には1000人を超える参列者が続き、葬列には別れを惜しむ市民が詰めかけた。
僕たちは想像しかできない。沢村栄治が投げた速球も、目を腫らしたスタルヒンも、盗塁を刺殺する久慈の送球も。英雄を喪った函館市民の感情も。
もし、久慈がジャイアンツに加入していたら、歴史は変わったのだろうか。巨人軍の主将として、沢村やスタルヒンを支える女房役になっていたのだろうか。「ヒゲの名捕手」として、もっと多くの人に愛されたのだろうか。
スタルヒンも40歳で死去した。沢村栄治はもっと早い27歳。英雄は、この世を去るのが早いのかもしれない。でも、僕たちは想像しかできない。
久慈の銅像の横では、函館太洋倶楽部の創立100周年を記念して植樹されたしだれ桜が、青々と茂っていた。函館太洋は現存する最古の社会人野球チームであり、読売ジャイアンツもNPB最古のチームである。久慈のことを知ることができたのは、記録が数多く残っているからだ。
僕たちは想像しかできないけれど、想像によって記録に色を付けることができる。
しだれ桜は、4月下旬から5月にかけて咲くだろう。北海道の桜前線は、遅い。
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