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探検家・角幡唯介とヤフー会長・宮坂学が語った「ビジネスでも『脱システム』できる」

宮坂学×角幡唯介 #1

note

ヤフーを一回辞めて、登る山そのものを変えたい

宮坂 そうですね。経験を積んで、色々なものが進化し成熟してくると、予測可能性が高まっていくんですよ。山登りもそうだと思うんですけど。

角幡 まさにそうですね。ぼくはそれをジャンル化という言葉で呼んでます。境界線が引かれていなかったような曖昧だった世界に人々が参入して、次第にモラルなんかができて一つの方向に凝り固まっていき融通がきかなくなってゆく。生物学でいうところの定向進化というやつです。

宮坂 ルートを視聴できるビデオまで出てきていて、トレースするにはそれなりに面白いと思うんですけど、「開拓」とはだいぶ違うと思うんですよね。僕はインターネットの世界に入って、約20年が経ちました。もちろん、まだ面白いところはあるんですけれども、インターネットの中でも全く新しい領域を開拓していかないと、どんどん行き詰まっていくと感じていて。それで僕はヤフーを一回辞めて、登る山そのものを変えたいと考えていたんですよね。

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――それが、Zコーポレーションということでしょうか。

宮坂 そうです。ヤフーなどがやっている仕事というのは、「情報のインターネット」というやつなんですよね。これは20年間で、非常に進化した分野で、おそらく世界のほとんどの情報はネットで見られるようになっています。ただ、それによって何をするにしても予測可能性がむちゃくちゃ上がっているんです。だいたいトレースできてしまう感じになっている。

 一方で、私にとって「今、まさに始まったところだな」と思っているのが、話題の「ブロックチェーン」と言われている領域です。もう一つは、Uberなどの移動に関する「MaaS」という技術。この二つは、私が20年前に感じたインターネットの雰囲気にちょっと似ている感じがするので「そっちをやってみようかな」と思って、あえて移ってみたんですよね。

角幡 僕は、本なんかでしか読んだことがないのでよく分からないですけど、GoogleやFacebookができた頃は、個人の創業者の発想によって、全く何もないところにゼロから作り上げていくような雰囲気があったじゃないですか。

宮坂 そうですね。

角幡 やっぱり、日本でもそういう感じだったんですか。

宮坂 ヤフーができた頃は、まさにそうでした。だから、私たちの世代は「20世紀」が入っているんです。私はヤフーができた2年目、1997年に入社しました。転職前は大阪で働いていたんですけど、インターネットだけの仕事をしたくてしょうがなくて。当時は大阪には見当たらなくて、ヤフーに来たんですよね(笑)。

 

97年、30歳で転職。ヤフーには「一癖ある人しか来なかった」

――30歳での転職だったんですね。

宮坂 当時、インターネットだけやらせてくれる会社というのが、ヤフー以外になかった。「どこかそういう会社ないかな」と探して、ポーンと飛び込んできてね。今でこそインターネットの通信料は安くなりましたけど、昔は高かったんですよ、3分何十円とかして(笑)。

角幡 電話につなげてましたもんね。

宮坂 そうなんです、しかも遅かったですよね。でもそれが入社すると、朝から晩まで徹夜して使ってもタダで、エアコンまで効いてる(笑)。「もう、パラダイスや」と思って私は会社に入り浸っていました。当時の社長から「家賃とるぞ」とまで言われて。別に、それまでの学歴やキャリアもあんまり関係ない感じで、色々な人が集まっていました。

角幡 なんか、いいですね。

宮坂 一癖ある人しか来ない、みたいな感じ。でもそれが成熟してくると、だんだん洗練されていって、今ではインターネット業界って人気のある企業になっちゃいましたよね。

角幡 確かに、そうですね。

 

宮坂 90年代は、全然そんな雰囲気じゃなかった。うちのお袋に転職先を説明するのが面倒くさいので、ヤフーのページをプリントアウトして見せたんですよ。そうしたら「印刷みたいな仕事をするのね」って(笑)。それから3年後くらいにインターネットが流行り出した時、お袋から電話がかかってきて「テレビで観たけど、インターネットが今から来るから、やっておいた方がいいわよ」と。そのくらいほのぼのしていました。

角幡 97年と言うと、僕が大学2年生の頃ですね。確か、インターネットは皆がそろそろ使い出すぞ、というくらいの時期で、携帯は持っていなかったですね。

宮坂 ポケベルですか?

角幡 PHS買うかなあ、みたいな感じじゃないですかね。すでに探検部には入部していました。

宮坂 まだまだ、固定電話が連絡手段として機能していた時代ですね。