台湾の人気作家・呉明益さんの小説『自転車泥棒』は、現代の台湾を生きる息子たちが、父親たちの語られなかった人生を探り、辿り直す物語だ。題名には呉さんの実体験があるという。
「ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』は、大学時代、芸術映画を浴びるように鑑賞していた頃に観た作品で、強烈な印象を受けました。映画のように、私も父に連れられ、盗まれてしまった自転車を、台北の万華区の中古品が売られる“泥棒市場”に捜しに行きました。父の掌から失望や混乱がひしひしと伝わってきた。生活はまだあまり裕福ではなかったので、自転車を盗まれたことは家計に大打撃だったのです」
本作の主人公は台北で暮らす小説家で、一大商店街「中華商場」で育った。熟練の仕立屋だった父親は、90年代はじめ、都市再開発に伴い「中華商場」が解体されると、愛用の自転車と共に失踪した。長じてアンティーク自転車の愛好者となった息子は、古物商の友人らを介して、父親の乗っていた「『幸福』印(メーカー名)自転車」と20年ぶりに再会する。
「台湾の父親には2つの典型的タイプがあります。大戦後に国民党と共に中国から渡ってきた“外省人”と、日本統治時代も台湾に住んでいた私の父親のような人々。どちらも、戦前から戦後にかけ大変な苦労をし、その体験を子供らに語ろうとしませんでした。私は自分の父が亡くなってからはじめて、彼が戦争中に台湾から動員され、少年工として神奈川県で戦闘機を作っていたことを知りました」
主人公はオンボロ自転車の修復を始める。牛革サドル、チェーンカバー、オリジナルエンブレム……インターネットを通じて台湾全土のコレクターから貴重なパーツが次々と届く。自転車が修復されていくにつれ、忘れられた断片として散らばっていた父親世代の人生の記録が、小説家の手元に集まり始める。それはメールであったり、テープであったり、親しかった人の話であったり、また北京語、台湾語、日本語、ツォウ語(台湾の先住少数民族の言葉)であったりする。