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いまの羽生さんは、昔の羽生さんがそのまま大きくなった感じ

 羽生少年は順調に強くなり、1979年11月、通い始めて1年ほどで初段になる。羽生少年の特徴は何だったのか。

「4級ぐらいから、詰将棋を作ってきて私に見せるんですよ。あと、テレビで放映された先週のNHK杯の将棋を頭のなかに全部入れちゃってて、私に解説してくれました。

 羽生さんは、下の人に慕われるし、上の人にもかわいがられていましたね。それは性格的なものでしょう。子どもであまり生意気になっちゃうと叩かれちゃうけど、羽生さんはそういうことがなかったです。

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 羽生さんは昔から淡々としていて、勝っても負けても変わらないですよ。いまの羽生さんは、昔の羽生さんがそのまま大きくなったような感じでね。昇級、昇段の一番で負けて、『惜しかったね』となぐさめると、『いいんだよ、また勝てばいいんだから』とサラッとしていました。強い五段の人と組み合わせても、喜んでやるんですよ。普通、子どもは『こんな強い人じゃ、嫌』ってやらないけど、羽生さんは誰とでもやりました。勝ち負けよりかは、将棋を指していることが楽しいという感じでした」

八木下さんが描いた羽生少年のひとコマ

「1度だけの涙」

 ただ1回だけ、悔しさを露わにしたときがあった。

「初段から二段に昇段する一番で負けてね。泣いたというよりは、指さなくなってしまった。どんな将棋でも少考はなかったのに、負けの局面でよそ見を始めたり、テレビのほうをキョロキョロ見たり。お母さんがもう迎えに来ていたんですけどね。しばらくしてから一手指して、案の定負けたわけです。そしたら、そのまま立ち上がってね、相手の方をにらみつけたんですよ。目がウルウルしていました。長い付き合いですけど、その1回だけですよ。あとは将棋で負けて、泣いたことはないです」

 1980年4月に二段、7月に三段、10月に四段。1981年1月には、第1回小田急将棋まつりの小学生大会で優勝する。これまで準優勝や3位の経験はあったが、大会の優勝は初めてだった。これ以後、百貨店で行われる将棋大会で優勝を重ねるようになった。

第1回小田急将棋まつりで優勝し、大山康晴十五世名人からトロフィーをもらう羽生少年

 当時、羽生少年は広島カープの赤い帽子をかぶっているのが有名だった。これは広島ファンというわけではなく、会場で目立って親が見つけやすいから、というのが理由だ。

「羽生さん自身はプロになることに前向きでした。1980年の夏休みが終わったころに、羽生さんのお母さんに『プロにさせる気ないの』っていったら、『この子はまだ赤ちゃんっぽいから、もう1年待ってください』といわれましたね。そしたら、その間に羽生さんが成長して、ほとんどの大会で優勝しました。お母さんから聞いた話なんですけど、大会の受付で列を作って並びますよね。そしたら大体、並んだ順にトーナメントが組まれるんだけど、羽生さんが並ぶと前に並んでいた子に『羽生、もっと後ろに行けよ』といわれて、結局、最後列になったことがあったらしいですよ(笑)。名が通っていましたからね」