平成最後のクリスマスイブ。羽生善治が27年ぶりに無冠になった3日後、ある将棋道場が41年の歴史に幕を下ろした。その名は、「八王子将棋クラブ」。小学生の羽生が通った将棋道場として知られ、数々のプロ棋士を輩出した。
席主(道場の運営者)は、75歳の八木下征男(やぎした・ゆきお)さん。名門道場となれば、スパルタ特訓が実を結んだように思うかもしれない。だが、羽生を育てたのは鬼コーチではない。居心地のよい空間と、成長を静かに見守る温かいまなざしだった。 (全2回の1回目/#2へ続く)
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将棋道場とはどんな場所なのか
将棋道場は誰でも将棋を指すことができる。まずは1日の料金を支払い、道場が選んだ同じぐらいの強さの相手と対戦する。何局指しても、勝っても負けても、料金は変わらない。勝敗は記録をつけられ、規定の成績を収めれば段級が上がっていく仕組みだ。
将棋の段級はプロとアマチュアで分かれており、アマチュアの段級の基準や認定方法は道場によってそれぞれで統一されていない。筆者のイメージでは、1手詰めの簡単な詰将棋がわかれば初心者、棒銀などの基本戦法を身に着ければ中級者、得意戦法や基本的な手筋が使えるようになれば初段。プロの養成機関である奨励会に入るには、最低でもアマチュア四、五段の棋力が必要だろう。奨励会は6級からスタートし、棋士になるには四段まで昇りつめないといけない。
将棋道場の雰囲気は、初心者や子どもが多くて和気あいあいのところもあれば、常連が集まって小規模で行っているところもある。棋士や講師が教室をやるところも多い。八王子将棋クラブはレッスンを行っていないものの、子どもや女性が比較的多く、敷居が低いのが特徴だ。
日立に勤めていた八木下さんが将棋クラブを開店するまで
八木下さんは1943年1月22日、東京都八王子市の生まれ。長男で、妹が2人いる。父親は家具職人だった。将棋は子どものときにルールを知っていたが、のめり込んだのは20歳を過ぎてから。当時、日立製作所に勤めていた。
「変電所の勤務は、事故さえなければ時間がいっぱいあったので、友達と2人で将棋を指していたんですよ。勝ったり負けたりだったんだけど、私が定跡書や詰将棋の本を読み始めてから、負けなくなったんです。26歳のときに社内の将棋大会に出ると、参加者約50人のなかでベスト16まで勝ち上がってね。その頃に将棋道場があることを知って、通うようになりました。でも、潰れたらできて、また潰れてという感じでね。私が通っていた道場は、もう全部潰れてしまったんですよ」
八木下さんから見れば、将棋道場は商売ではなく、道楽のような感じだったという。それにもかかわらず、八木下さんは日立製作所を辞めて、1977年3月に34歳で自分の将棋道場、八王子将棋クラブをオープンした。何も当てはなく、開店の準備はひとりで行った。
「電気関係の仕事で高度経済成長期の時代ですから、ものすごく忙しかった。自分の能力以上に掛け持ちが多かったんで、このままじゃ殺されちまうと思ってね。自分のペースで仕事をやりたいと思って、それで将棋道場を始めました。『何でいままで積み上げたものをやめるんだ』と、みんなにいわれましたよ。広さは7坪しかなかった。『つぼ八』って居酒屋があるでしょ。あれは創業したときは8坪しかなかったから『つぼ八』なんだけど、うちは『つぼ七』なんです(笑)」