入学が決まった後には、当時の浦田春生監督に自ら「練習に参加したい」と電話をした。とはいえ、5000m15分台の記録ではなかなか入部の許可は下りない。なんとか寮外から日常の練習に参加する「準部員」という形式で話がまとまったという。
準部員という立場では、陸上部の寮には入れず、中大の名前の入ったジャージや「C」のロゴマークの入ったウエアを着ることもできない。
中山の大学陸上生活は、文字通り底辺からのスタートだった。
底辺から始まった、箱根への道
「最初は『ここでやっていけるかなぁ』という気持ちの方が正直、大きかったです。周りはみんなインターハイや高校駅伝で実績がある有名選手ばかりで、自分は基礎練習にもついていくことができない。はじめは寮外生としか話もできなくて、高校時代からエース級だった堀尾(謙介/4年)なんかには、気安く声をかけることもできなかったです(笑)」
そんな環境の変化に加え、それまでは考えられなかったほど急激に練習量も増加した。はやる気持ちに身体が追いつかず、1年目の夏には故障も起こした。
「この頃が一番、きつかったですね。夏の3カ月くらいほとんど走れなくて。『ただでさえ遅いのに、何をやっているんだろう』と考えてしまいました。この頃には『やっぱり自分に箱根は無理なんだ。諦めようか』という想いが頭をよぎるようになっていきました」
首脳陣からは「9月までに5000mで14分台を出せなければ、部には残せない」と言われていた。夏に故障を起こすということは、この条件の中では致命的ともいえるものだった。
そんな中で、中山を救ったのが当時チームで指導に携わっていた森勇基コーチの存在だった。
「ちょうどそのタイミングで、森コーチがそれまでなかった『育成チーム』を作ってくださったんです。高校時代に記録を持っていない選手たちで形成するチームで、そういう選手たち用に特別にメニューも用意してくれて、少しずつ力をつけられました」
夢にまで見た「C」のジャージを着るとき
部に残る条件についても、森コーチの尽力が非常に大きかったと中山は振り返る。
「『あいつら頑張っているから、12月まで待ってもらえませんか』という話を監督たちにしてくれていたみたいで。それで育成チームが全員、11月に14分台のタイムを出して、なんとかチームに残れたんです。僕は14分58秒だったと思いますけど、その2秒が切れた時は本当に嬉しかったですね。思わずガッツポーズでした。もし普通のチームだったら、僕は部に残れなかったんじゃないかと思います」
夢にまで見た「C」のジャージは、翌年の箱根駅伝の補助員としてはじめて身に着けられたという。ようやく「チームの一員になれた気がした」と振り返る。
2年生になるとケガもなくなり、中山はどんどん力をつけていった。
「少しずつ練習もこなせるようになって、ついていける距離が少しずつ長くなっていって……という感じで徐々に伸びて行きました。いままでできなかった練習ができるようになると『力がついたのかな』と思えましたし、試合でベスト記録を更新できれば『強くなっているな』と自信になって、次も『もっと上を目指していこう』とステップアップできました」