「1日1回は死体を見ていました」
安田 まずはご経歴をおさらいさせてください。佐近さんは日本語と広東語が両方ネイティヴ。それプラス、標準中国語(普通話)と英語も不自由なく話すことができます。
佐近 ですね。僕の経歴を言いますと、親の仕事の関係で香港で育って、現地ローカルの学校に通ってから香港の日本人学校に行っていました。それから、高校・大学は日本。大学時代に広東語を言語学的な面から勉強しなおしました。
安田 大学時代は千島英一先生のお弟子さんですよね。日本人の広東語学習者がほぼ必ず手に取る、『東方広東語辞典』や『エクスプレス広東語』を書かれた広東語研究の泰斗です。
佐近 はい。で、学生時代に台湾に留学して標準中国語も覚えて、1996年以降、多少の中断はありますが基本的に広東省で働いています。2016年に独立して、現地で東莞市比愛色印刷材料有限公司という印刷会社を経営しています。自宅は香港にあって、平日は東莞住まいですね。
安田 中国南方のメチャクチャ感は90年代がピークで、ゼロ年代なかばぐらいまでは明確にありましたよね。
佐近 90年代後半は、1日に1回は死体を見ましたからね。交通事故ですけど。ドライバーは歩行者がいても一切ブレーキ踏まないし進路も変えない。対して歩行者も車を見ていない。事故になるのは明らかなのになぜ毎日轢かれて死んでいる人がいるんだろうと。
安田 人間と自動車のメンツの勝負みたいになっていましたよね。僕もさすがに「1日1回」ではないですが、地方では路上で手が取れて死んでいる人を見たなあ……。ちなみに当時、農村部で人を轢いたときは、ドライバーはケガ人を助けずに全力で走り去って、隣村に行ってから警察と救急車を呼べ、と言われていました。
佐近 うんうん。言われていましたね。
安田 ドライバーが事故現場にとどまると身の危険があるからです。村人が総出で復讐にやってきて、よくて半殺しにされるし、車もボコボコにされてしまう。基本、生命が軽くて、暴力が身近な世界でした。