この一か月の間に、私はこの本をごく自然に三回読んだ。ひとつには難解だからであり、ひとつにはにもかかわらずきわめて刺激的だったからである。
緒言で著者岡﨑は、抽象芸術が追究してきたものは、物質が知覚をとびこえて直接精神に働きかける直接性ないし具体性だと言い、つまりキュビスム以降の芸術の核心は「唯物論」だと宣言する。
一方で、抽象芸術を単に視覚の追究と誤認したり、デザイン的意匠と間違えたりすることが続いたおかげで、正統な抽象芸術を志向してきた戦前の日本の芸術家が無理解にさらされてきた、と岡﨑は説き始める。
そこで岸田劉生が、恩地孝四郎が、熊谷守一が新たに見直され、ほこりをぬぐわれて輝いていくのだが、同時にモンテッソーリ教育が芸術家たちに与えた影響、またダンサーとしてデザイナーとして教師としてダダを主導した女性ゾフィー・トイベル=アルプの足跡なども掘り起こされる。
ことに岡﨑の抽象芸術論の重要な補助線となるのは、夏目漱石の『文学論』である。「F+f」という式が有名だが、漱石はそもそも世界の文学すべてを科学的に分析するならば、この「F(観念)とf(知覚)」に集約されるとした。そして主にその組み合わせの単純さ、単純であるがゆえの難解さによって無視されてきた(一昨年出版された、山本貴光『文学問題(F+f)+』がこの式の機能をつまびらかに説いている)。
岡﨑は「F+f」という文学による世界のとらえ方、もしくは「F+fと説いた漱石」自身を抽象芸術を考え直すための糧とする。知覚の集合が観念なのではなく、むしろその差を芸術は捉えねばならない。
だからこそ「f→F」ではなく表記はあくまでも「F+f」なのだ。外界を感じ取ることと、それとは別に生じる認識が、外界を把握する時の我々人類の複数の方法であるかもしれず、いわばそうやって「Fもfも」と分裂する人間の姿を文学は捉え得る、と漱石は考えたかもしれない。
決してひとつの考えをつかんだままではいられない生のあり方を、「人は観念の束」と説いた哲学者ヒュームの研究者でもある漱石はどう咀嚼したか。
では絵画や彫刻、建築はいかがであったかと岡﨑は進む。その過程で我々は多くの知らなかった芸術家、もしくは誤解してきた作品群を豊富な図版で知覚し直し、認識を新たにする。そして二十世紀の知性がいかにネットワーク化され、ないしは断絶したまま同時に展開して「唯物論」を深めていたのかを理解する。
その知性は抽象芸術という一見わかりにくい“表現”によって掘り進められてきた。だが、一方で今世界は「わかりやすい」虚偽に覆われ始め、百年分の退化を余儀なくされつつある。
これは抵抗の書である。
おかざきけんじろう/1955年、東京生まれ。造形作家、批評家。絵画、彫刻、建築などジャンルを超えて作品を発表。著書に『ルネサンス 経験の条件』、共著に『絵画の準備を!』など。
いとうせいこう/1961年、東京生まれ。小説家、演出家、ラッパーなどとして活躍。著書に『ノーライフキング』『想像ラジオ』など。