いまから222年前、日本における初めてのチョコレートの記録が史実に刻まれた。「しょくらあと六つ」。1797(寛政9)年、長崎の遊女町の記録『寄合町諸事書上控帳』に出島のオランダ人から遊女が受け取り、届け出た品物の中に、「しょくらあと六つ」という記載があった。
以降、1918(大正7)年に森永製菓が初めての国産ミルクチョコレートを発売し、第二次大戦後には進駐軍がチョコレートをバラまいた。しかし現在、国内のチョコレート市場、最大のイベントと言えばもちろんバレンタイン商戦だ。少し前までは、このシーズンに国内消費の約2割が集中すると言われていた。
「バレンタインデー≒チョコレート」になったのはいつから?
これほどまでに、バレンタインデー≒チョコレートとなったのはいつからか。過去にも新聞などでその由来について調べられてきたが、現代へと続く流れはどうにも判然としない。
例えば1985年8月12日付の日経産業新聞の記事には「日本チョコレート・ココア協会(会長中川赳明治製菓社長)によると『元祖争いが激しくて起源はよくわからない』」と記されている。さらに遡ること28年、1957年2月17日付の朝日新聞には「二月十四日を聖ヴァレンタイン・デーとして、女から男への、恋の打ち明けにつかうのは、いつの世からの習わしか。(中略)外国間の、何となくしゃれた習わしだからととびついて、二月の商売不振に売り出されたおくりものの数々」とある。
1957年の時点では「ギフトを介しての女性から男性への告白」という息吹はあったものの、まだ「バレンタイン≒チョコレート」は定着していなかった。だが1985年には起源が追えないほど、当たり前の文化になっていたということになる。この28年間にバレンタインデーにはどういう変遷があったのだろうか。
神戸の「モロゾフ」起源説
年代の早い起源説には神戸の「モロゾフ」説がある。1936(昭和11)年の英字新聞「ジャパンアドバタイザー」に"For Your VALENTINE Make A Present of Morozoff's FANCY BOX CHOCOLATES"と書かれた広告が掲載された。当時、神戸の旧外国人居留地などに住んでいた外国人に向けた広告だったが、これがいつしか日本人にも広まり、バレンタイン≒チョコレートという図式につながったという説だ。
実はこの前年から数年間、モロゾフは同紙にバレンタイン広告を打っているが1935(昭和10)年の見出しは"Sweetest Valentine of Them All―""A HEART-FULL of MOROZOFF'S SWEETS"となっている。広告中にchocolatesの文字は確認できないし、内容も「バレンタインという価値ある習慣」の紹介に軸足が置かれている。
いずれにしてもこの広告が掲載されて数年後、第二次世界大戦が開戦する。国内の物資や食料が著しく欠乏し、「贅沢は敵」という言葉が生まれた。英語は敵性語とされた時局を考えると、戦前の英字新聞への広告が、現在のバレンタインにどれほど影響を与えたか、懐疑的な見方をせざるを得ない。
そもそも、現代へと続く日本の食文化が花開いたのは、第二次大戦が終わってからのことだ。確かにモロゾフは先鞭をつけたのかもしれないが、現在へと続くバレンタインチョコレートの流れの端緒とするには少々強引な感がある。