「あまりに力不足だから、もう映画には出られない」
――『菊とギロチン』の撮影が終わった後、木竜さんは「自分はあまりに力不足だから、もう映画には出られないと思います……」(「キネマ旬報」2018年12月下旬特別号)と。また少し時間が経ってみて、どうですか。
木竜 そのあとに映画『鈴木家の嘘』の現場に行かせていただいて思うのは、『菊とギロチン』の現場がなかったら、次の現場や今みたいな場所もなかったということなんです。私はとにかく現場でいっぱいいっぱいで。でも瀬々(敬久)監督やスタッフ、キャストの皆さんがそのことを分かったうえで、それぞれが熱いものを持ち寄る場所にいられたことは、たぶんすごく幸せで。
――ふがいなさというか、悔しさは残っていますか?
木竜 今でも変わらずに思っている悔しい部分はどうしてもあるんですけど……。それとは別に、感謝というとちょっと違う感じもあるんですけど。でも出会えて幸せで、私はすごく運がいいし、恵まれているし。映画が公開されたあと、観てくださった方から感想をもらったり、授賞式の場で監督のお話や、映画を応援してくださった方の声を聞いたりすると、反省よりも「ありがとうございます」って伝えたくなります。自分が関わった映画を人に観てもらえて、届いていくという出来事が、私にとってはすごく大きなことだったんですよね。
――初号試写の後に、瀬々監督から言葉をかけられたそうですね。
木竜 たしか初号試写の後は、私が監督に挨拶をしに行ったんですよね。「ありがとうございました」「頑張ります」っていうこと以外、何も言えなかったんです。初号試写は、どうしても客観的には観られなかったですし。自分がこんなに長くスクリーンに映ってること自体、変な感じでした。あの時も監督と私、寛一郎くんも一緒にいて、3人でなんとなく立ってしゃべっている中での言葉だったんです。
監督は「あのときの私たちの精一杯が映っていて、それがスクリーンの中で生きている」「頑張ってください」。そういうことを言ってくださって。その時は、言葉の意味をきちんと分かっていなかったかもしれないんですけど……。振り返ってみると、監督が「今、やらなくてはならない」と思ったところに、みんなが乗っかって一緒にやるっていう力強さがあった現場だったと思うんですよね。未熟さもふくめて、あの時の私だからやれたことがあったし、スクリーンに映る何かがあった。時間が経って、私の中でもようやく受け止められたのかな、と。
私って分かる人がいるのか、くらいの映画デビュー
――映画デビューは『まほろ駅前狂騒曲』(2014年)なんですよね。
木竜 そうです。喫茶店のウェイトレスの役でした。もうほんとに、私って分かる人がいるのか、くらいの(笑)。
――でも、声ではっきりわかります。「いらっしゃいませ~」がものすごく自然な感じです。
木竜 父や母は気づいてくれたみたいです(笑)。大学生の頃は、コーヒーを出したりごはんを出したりっていうホールスタッフのアルバイトをしていました。この時は1シーンか2シーンくらいの役だったので。でも、あの作品で助監督をされていたのが『鈴木家の嘘』の監督、野尻(克己)さんだったんですよ。
――たしかに、そう考えるとご縁ですよね。野尻監督とそのことは話しましたか?
木竜 オーディション前の面接の時に「ご無沙汰しています」と。あの当時、私ハタチになったばかりくらいで。
――大学生の頃でしょうか。
木竜 そうですね。大学進学と同時に上京して、わりとすぐの頃でした。『鈴木家の嘘』のオーディションを受けた時に「もう23になりました」みたいなことをお話ししたような気がします(笑)。