先日、中井貴一にインタビューさせていただいた。
中井は若手時代のテレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』など、「どこにでもいそうな平凡な男」を多く演じている。それは、デビュー当初に共演した小林桂樹から受けた、ある言葉が影響しているという。
「これからはアウトローが主役の時代になる。でも、そんな時代に、みんながアウトローしかできなかったら、映画は輝かない。サラリーマンを演じられる人間も必要なんだ。お前にはそれを貫いてほしい」それが小林の言葉だった。
小林といえば、『激動の昭和史 軍閥』の東條英機や『日本沈没』の田所教授など苛烈な役柄も印象深いが、真骨頂は「平凡なサラリーマン」役だろう。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』や「社長」シリーズで演じたサラリーマン像は、「いかにも」な雰囲気があり、日常から飛び出してきたリアリティを醸していた。
今回取り上げる『江分利満氏の優雅な生活』も、しかり。
小林扮する主人公・江分利は、家族と酒をこよなく愛する、安月給のサラリーマンだ。本作が描くのは、彼の日常だ。
アウトロー的な役柄の場合、その狂気や闇の放つ非日常的な刺激性のために観客はエモーションを掻き立てられ、画面に釘付けになる。が、「平凡な人間」の場合は「どこにでもいそう」なため、登場しても観客の感情は動きにくく、一つ間違うと映画全体が退屈なものになってしまう。だが、それを小林が演じると途端に輝き出し、観る側は画面から目が離せなくなってしまうのである。
会社の屋上で退屈そうに頬杖をつく、会社帰りに寄ったバーで酔っ払ってクダをまく、朝起きてパジャマ姿でトイレへ行く、休日にランニング姿で庭掃除をする、気持ち良さそうに風呂に入る――本作が映し出すのは、そんな「どこにでもある日常」だ。しかも、小林の風体は中年太りの体躯に黒縁メガネ、主役らしい華は全くなく、完全にその日常の世界に溶け込んでいた。
しかし、だ。どこにでもいそうでいながら、その動きや表情はどこかコミカルな愛嬌があり、可愛らしさすら覚える。その上、その様があざとさやわざとらしさのない演技の中から見えてくるため、日常の映像から浮き上がるような違和感がないままに自然に目に飛び込んでくるのである。
結果、小林の姿を追っているうちに主人公を取り巻く「どこにでもある日常空間」が魅力的に思えてきた。そしてついには、退屈でたまらないこちらの日常まで、なんだか愛しくなってきてしまった。
何気なく見せながら、気がついたら観客を虜にしてしまう。これぞ、名優である。