将棋界の「人生派」を全否定
酒や遊びが人間性を深め、将棋を強くするという考えも根強くあった。
しかし、わずか19歳の青年羽生は、将棋はジャスト・ゲームであると言いきったのである。酒も遊びも将棋とは別のもので、それによって将棋が強くなることはあり得ないと。それは同時に盤外戦の完全否定でもあった。
ゲームとしての将棋だけにわき目を振らず羽生はのめりこんでいく。その結果がリップクリームであったり上座下座事件であったりするのであり、要するに羽生にとっては大きな問題ではないのである。
しかし、それは大なり小なり人生派的な考えを持つ羽生以前の世代の棋士たちにとっては、それまでの将棋を全否定されたにも等しい衝撃であった。盤外戦術を否定し盤にひたすらのめりこんでいくことや、「将棋はゲーム」という言葉さえも、羽生の全く意識しないところで盤外戦術になっていたのだとしたら、それは全く皮肉なこととしかいいようがない。
「打ち歩詰めがなければ、先手が有利」
羽生善治が七冠に挑んでいる頃だから、おそらくは1995年の夏くらいのことだと思う。将棋界では羽生がもらした一言が大きな話題になっていた。
「打ち歩詰めがなければ、将棋は先手が有利」という発言である。
打ち歩詰めとは、持ち駒の歩で王様を詰ませることで、将棋にはそれを禁じるルールがある。どちらかというと、王を持ち駒の歩ごときで殺すのは失礼に当たる、という日本人的な精神から作られたルールではないかと解釈されてきた。
しかし、羽生は、それがいわば将棋の結論にかかわるルールだ、と示唆したのだ。将棋界は騒然となった。
生真面目な佐藤康光九段は、この言葉の意味を3日間考えて、結論も出ず証明もできなかった。素直で正直な森下卓八段はまる一日考えて、考えることをやめた。勝負に辛い森内俊之八段は最初から考えることもしなかった。先崎学八段は「また、そんなことを思いつきで言って、皆を煙に巻こうとしているんだ」と笑い飛ばした。