「君」がいないのに二人追いかけている=諸法無我
〈始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている〉
この結末は『天体観測』の解釈でも謎とされている部分である。なぜ二分後に君が来ないのに、僕は君と二人ほうき星を追いかけられているのだろうか?
ここで、再び紐解きたいのが、藤くんがこれまで他の楽曲で表現してきた「僕」と「君」とのあり方だ。
〈僕がここに在る事は あなたの在った証拠で〉
(『花の名』作詞:藤原基央)
〈君といた事をなくさないように なくした事をなくさないように
どれだけ離れてもここにある 君がいるからどこまでだって〉
(『トーチ』作詞:藤原基央)
このように、藤くんは「自分」と「他者」との間で、明確に境界線を引かない。
闇がなければ光は見えず、死がなければ生も感じられないように、「僕」もまた「君」がいるからこそ存在することができるのだと唄う。そんな自他で相互に存在を共鳴させるような感覚が、藤くんの生きる世界観である。
それはブッダが言う「諸法無我」(もしくは「空」)という世界観と似ている。藤くんは、そんな諸法無我な存在の捉え方を「『君』がいないのに二人追いかける」結末で描こうとしたのではないだろうか。
もはやブッダも藤くんも「君が物理的に存在するかどうか」は問題としない。「君」がいたことで今存在している「僕」や、「君」を失ったことで今存在している「僕」がもはや「君」なのである。
『天体観測』の結末で「僕」が「君」がいないのに二人追いかけられていたのは、そんな風に存在を捉えることができた「僕」の成長を描いているのではないだろうか。
さらに言えば、二人で追いかけるものは、諸行無常である「イマ」というほうき星。
因果でつながった一瞬一瞬の「今」も、過去に「君」がいたからこそ存在する。そんな諸行無常・諸法無我な世界に、「僕」が気づくシーンが結末で描かれていたのだ。
「僕」が涅槃寂静するまでの物語
『天体観測』を「僕」が答えのないところに答えを見つけるまでの成長物語として、その結末がどうなったのかを考察してきた。
まとめるなら、『天体観測』とは「僕」が「他者がいるからこそ自分がいる」という存在のあり方(諸法無我)に気づき、様々な因果でつながった「今」という一瞬(諸行無常)に到るまでの物語として読むことができる。
順番が逆になってしまったが、そんな結末に導くためのキーアイテムが、サビで唄われる「望遠鏡を覗き込む」行為である。
〈見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
(中略)
知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ〉
すなわち、望遠鏡で覗こうとしているものとは、見ようとしても見れない「今」という時間のあり方。さらには、知ろうとしても知れない「存在」のあり方なのではないだろうか。