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BUMP OF CHICKENは「野生のブッダ」? 『天体観測』には仏教のすべてがあった

この名曲は「悟りを目指す物語」なのではないか

2019/03/24

genre : エンタメ, 音楽

「君」がいないのに二人追いかけている=諸法無我

〈始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている〉

 この結末は『天体観測』の解釈でも謎とされている部分である。なぜ二分後に君が来ないのに、僕は君と二人ほうき星を追いかけられているのだろうか?

 ここで、再び紐解きたいのが、藤くんがこれまで他の楽曲で表現してきた「僕」と「君」とのあり方だ。

〈僕がここに在る事は あなたの在った証拠で〉

(『花の名』作詞:藤原基央)

〈君といた事をなくさないように なくした事をなくさないように
 どれだけ離れてもここにある 君がいるからどこまでだって〉

(『トーチ』作詞:藤原基央)

 このように、藤くんは「自分」と「他者」との間で、明確に境界線を引かない。

 闇がなければ光は見えず、死がなければ生も感じられないように、「僕」もまた「君」がいるからこそ存在することができるのだと唄う。そんな自他で相互に存在を共鳴させるような感覚が、藤くんの生きる世界観である。

©iStock.com

 それはブッダが言う「諸法無我」(もしくは「空」)という世界観と似ている。藤くんは、そんな諸法無我な存在の捉え方を「『君』がいないのに二人追いかける」結末で描こうとしたのではないだろうか。

 もはやブッダも藤くんも「君が物理的に存在するかどうか」は問題としない。「君」がいたことで今存在している「僕」や、「君」を失ったことで今存在している「僕」がもはや「君」なのである。

 『天体観測』の結末で「僕」が「君」がいないのに二人追いかけられていたのは、そんな風に存在を捉えることができた「僕」の成長を描いているのではないだろうか。

 さらに言えば、二人で追いかけるものは、諸行無常である「イマ」というほうき星。

 因果でつながった一瞬一瞬の「今」も、過去に「君」がいたからこそ存在する。そんな諸行無常・諸法無我な世界に、「僕」が気づくシーンが結末で描かれていたのだ。

「僕」が涅槃寂静するまでの物語

『天体観測』を「僕」が答えのないところに答えを見つけるまでの成長物語として、その結末がどうなったのかを考察してきた。

 まとめるなら、『天体観測』とは「僕」が「他者がいるからこそ自分がいる」という存在のあり方(諸法無我)に気づき、様々な因果でつながった「今」という一瞬(諸行無常)に到るまでの物語として読むことができる。

 順番が逆になってしまったが、そんな結末に導くためのキーアイテムが、サビで唄われる「望遠鏡を覗き込む」行為である。

〈見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
 (中略) 
 知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ〉

 すなわち、望遠鏡で覗こうとしているものとは、見ようとしても見れない「今」という時間のあり方。さらには、知ろうとしても知れない「存在」のあり方なのではないだろうか。