そう思えば、1番や2番のAメロやBメロは、見ようとしても見れない、知ろうとしても知れない「迷う姿」として描かれているように感じられる。
(1番)
〈深い闇に飲まれないように 精一杯だった
君の震える手を 握ろうとした あの日は〉
これは「なぜ雨が降ってしまったのか?」という思い通りにならない現実に対する苛立ち、さらには「なぜ僕は君の手を握ることができなかったのか?」という過去に対する執着を表現している。
(2番)
〈気が付けばいつだって ひたすら何か探している
幸せの定義とか 哀しみの置き場とか〉
具体的表現が多い歌詞の中で、ここだけかなり抽象的な言葉が使われているのが印象的だ。これは大人になるにつれて覚えていった、思い込みや固定観念を表現するため、あえて仰々しい言葉を選んでいるのではないだろうか。
望遠鏡を覗く行為とは「禅」なのではないだろうか
こうしたAメロBメロの「迷い」がサビの「望遠鏡」で解き放たれていくのである。
そんな迷いの世界で「今」と「自分」を見つめ直し、本当の「時間」のあり方、本当の「自分」のあり方を見つけようとする行為を、この世に存在する言葉で表現するなら、たった一つしか僕は持ち合わせていない。
「禅」である。望遠鏡を覗く行為とは「禅」なのではないだろうか。
(1番)
〈見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ〉
ここでは、心を空っぽにしようとすればするほど、自分の心が煩悩に溢れていることに気づいていく様子を「静寂を切り裂いて生まれる声」という言葉で表現している。
(2番)
〈知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ
暗闇を照らす様な 微かな光 探したよ〉
思い込みや固定観念にとらわれて、知った気になっていた自分自身の心を見つめ直していく様子が「暗闇を照らす光」として表現されている。ちなみに、仏教では知った気になったような無知な状態を「無明」といい、「暗闇」とのイメージのリンクが垣間見える。
(3番)
〈見えているモノを 見落として 望遠鏡をまた担いで
静寂と暗闇の帰り道を 駆け抜けた〉
3番では、見えているものが見えなくなって、再び禅を行う姿が描かれる。1番2番の煩悩めいた過去の姿が「静寂と暗闇の帰り道」として表現され、そんな過去の痛みも、「今」を見つめるためのきっかけに変えていこうとする姿勢が見られる。
そして、何度も禅行を繰り返し、最後のサビで「僕」はやっとたどり着くのである。
〈始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている〉
君がいないのに君と二人でほうき星を探す行為である。