「俺は後世に名前が残るが、小渕は顔が残る」。平成となったときの首相・竹下登は、「平成おじさん」と呼ばれ親しまれる小渕恵三について、そう言って皆を笑わせたという(注A)。実際、平成の終わりが近づくにつれて、「平成」の墨書をもった官房長官時代の小渕の姿が顧みられることになる。小渕も後年、首相にまで登りつめるが、結局のところ、あの瞬間が世の中に残るのであった。
「平成」を考案したのは誰だったのか
ところで「平成」は誰が考案したのか。内閣内政審議室長として元号選定に関わった的場順三が近年、それを明らかにしている。「『平成』の考案者は、山本達郎先生です」と。
そもそもこの東洋史学者に声がけしたのが的場であった。的場は竹下が「20年たてば話しても良いでしょう」と言っていたこと、くわえて「『平成』の考案者は安岡正篤氏」という誤った説も広まっていたので、新元号選定の過程を詳らかにするようになる(注2)。安岡正篤とは陽明学者で政界の黒幕ともいわれ、細木数子の夫でもあった。
また小渕が掲げた「平成」の額縁について的場は、「視覚に訴えるように『書』として発表したのは、石附弘秘書官のアイデアです」と述べる(注2)。それについて当の石附は、「先例のないテレビ時代の元号発表方法を考案しなければならない」のが課題であったからだと記している。(注3)
実際、「平成」と決めた臨時閣議から出てきた閣僚から、新元号を教えてもらった記者は漢字をイメージできずにいた。
「新元号はどうなったんですか」
「たいらになる、だよ」
しかし、咄嗟には漢字のイメージが浮かばなかった。
「どんな漢字ですか」
―――日本テレビ報道局天皇取材班『昭和最後の日』より