「一種の“思いやり”からの退位説」が主張された
まず、天皇の自由のためという議論。退位した方がスケジュールもたてやすく、責任ある立場から離れる方が天皇にとっても外遊が楽ではないかと考えられたのである。ヨーロッパ訪問が天皇の「花道」と考えられ、退位の観測が「四月二十九日『天皇御退位』説の根拠」という記事などで報じられることもあった(「週刊新潮」1971年3月6日号)。古希を迎えた天皇が仮に退位するにあたって、外遊は「花道」になると考えられた。天皇初の外遊という大きな仕事を成し遂げた昭和天皇はそれを契機に引退し、その後「余生」を静かに過ごしてはどうか、という「一種の“思いやり”からの退位説」が主張されたのである。国会でも皇室典範改正をめぐって議論が重ねられた。
こうした「余生」の観点からだけではなく、ヨーロッパ訪問は昭和天皇の戦争責任問題を再燃させた。訪問国での天皇への反応から、天皇は退位すべきではないかという議論が出てきたのである。1975年にはアメリカ訪問が実現するが、この時にも、戦争責任論による退位論が再浮上した。「週刊読売」1975年9月27日号のなかで作家の井上ひさしは、訪米後に天皇は退位するだろうと主張し、その理由の第一に「余生をのんびりお過ごしになってはどうか」、第二に訪欧訪米によって「最終的な謝罪が完了した」、第三に皇太子が年齢を重ねてきたことを挙げている。戦争責任の問題と「余生」の問題を挙げながら、昭和天皇の退位を主張したと言える。
天皇の「余生」をどう考えるべきなのか
その後も、退位論は噂のレベルも含めて、時々提起されていく。保守派の評論家・論客であった清水馨八郎千葉大学教授は、1981年に「諸君!」第13巻第4号(1981年4月号)のなかで「天皇譲位のすすめ」という論文を発表し、退位論を提起した。清水は天皇の高齢を退位の理由として述べている。皇室典範が制定時に想定していなかった高齢化社会が生じるなかで、天皇の「余生」をどう考えるべきなのか、清水はこれを人権問題と捉えた。こうした退位論は前述のように「思いやり」とも評され、昭和天皇の年齢ではその仕事量は激務であり、それから解放することで天皇の健康が保たれ長生きに繋がると見たこと、その「余生」について自分たちが考える必要があることを提起していた。
とはいえ、政府はそうした動きを否定し続けた。まず、昭和天皇に退位する意思がなかったことが大きい。また、いくら「余生」がクローズアップされてきたとはいえ、退位をすれば昭和天皇の戦争責任を認めてしまう可能性はまだ残っていた。それは天皇制にとっても危険なことであった。皇室典範に退位に関する条項がないことも、その可能性を狭める要因となった。結局、昭和天皇は退位することなく、天皇のまま崩御の日を迎える。それゆえ、平成のときにも国会では「余生」という観点からたびたび退位に関する議論は展開されるものの、昭和のころよりは停滞していた。天皇は終身在位し続けるものと考えられていたのである。