新元号が「令和」と発表された。2019年4月30日、日本近現代史上初めての天皇退位が実現する。実は、今までも戦後の日本社会においては退位に関する議論はあった。しかし、それは実現しなかった。なぜなのか。
敗戦直前から、日本国内では昭和天皇の退位論が提起され始めていた。元首相の近衛文麿らは、天皇には法的・政治的責任はなくても、敗戦に伴う道徳的責任が存在すると考えた。もし昭和天皇がこのまま在位し続ければ人々の中にわだかまりが残る。そこで、天皇制を維持するために天皇は退位すべきだと主張したのである。
こうした道徳的な戦争責任を伴う昭和天皇の退位論は一定の広がりを有していた。敗戦直後は高松宮や三笠宮、東久邇宮などの皇族などからも退位論が主張されており、影響力を持っていた。
しかし政府や占領軍は退位を否定した。退位が天皇の戦争責任を認め、戦犯裁判へと繋がり、天皇制廃止に繋がる危険性があったからである。それゆえ、戦後新しく制定された皇室典範にも退位に関する規定は盛り込まれなかった。とはいえ、占領期にはその後も、天皇の道徳的責任を追及した退位論がたびたび提起されていった。
天皇制の「若返り」を求めて起きた退位論
それが1950年代に入るとやや変化を見せ始める。講和独立が近づき「新生日本」への期待感が高まるなか、明仁皇太子に対して注目が集まった。その雰囲気を踏まえ、1952年には若き衆議院議員であった中曽根康弘は、天皇制の「若返り」を求めて退位論を主張する。皇太子と正田美智子の婚約発表を契機にした「ミッチー・ブーム」のときには、「天皇引退の花道」と述べて退位を主張する週刊誌も登場した。
次第に、戦争責任という要素がなくなり、人気のある若い世代に譲ってはどうかという主張へと変化していったのである。憲法が規定する基本的人権という概念を天皇にも当てはめ、「定年退職」=退位の自由を認めてはどうかという議論も登場していた。政府はそれを否定し、その後、しばらく退位論が登場することはなかった。しかし、昭和天皇が古希(70歳)を迎える1971年、その風向きが変わる。この年、天皇はヨーロッパ訪問を行うことになっていた。その関連のなかで退位論が登場する。