本書は、認知症の介護家族の事例を分析した社会学の本である。それは、しばしば一部の報道や医療バラエティにみられるような、ことさらに不安を煽るものでもなく、かといって「今は介護が社会化(専門化)しているから、どうぞ安心してください」というメッセージを訴えかけるものでもない。不安を煽ること、安心を説くこと、これらに共通するのは、専門家や専門知識と私たちのあいだの分断である。医療の専門家が、素人が知らない概念や事実をふりかざすとき、私たちは不安になることもあるだろうし、逆に「異常の理由がわかったので安心」することもあるだろう。しかし本書で描かれる介護家族のすがたは、このどちらでもない。
そこで描かれるのは、何かしら家族に異常を感じたときに、「この人は認知症かどうか」を専門知識を利用しながらあれこれ判断する家族の姿であり、認知症と診断されたあとでは「この(一見理解しがたい)患者の言動はどういう意味を持つのか」について、患者のこれまでの人生を参照しながらあれこれと思慮を巡らす介護家族の姿である。
認知症(患者)とは、何かしら突発的に家族に降ってきて、家族を不安・負担の海に突き落とすようなものではない。認知症の家族介護とは、医者などが優先的に持つ病気に関する《専門知識》と、介護家族が優先的に持つ患者個人の《人生についての知識》が交わるところに現れる、厚みのある経験だ。
これらの認知症患者の介護家族の経験は、「新しい認知症ケア」の理念に基づいたものだ。夜中に徘徊する、激しく怒るなどの患者の困った言動に対して、介護家族は、場合によっては病気の特性に照らして理解し、別の場合には患者のこれまでの人生や性格からそれを理解する。すべてを「病気のせい」にしていればよいものではなく、またすべてが患者の人生から理解できるものでもない。
介護家族の経験の現実は、その中間にある。対応の良し悪しは一律には決まらないし、日常生活の規範が通用しないことも多い。だから、専門家も家族も、その都度困り、悩む。
筆者は、介護家族が認知症にうまく対応できないから悩むのではなく、悩むことこそが、家族が認知症患者を尊重していることの証拠だ、という。重い負担を背負う家族に対して、これ以上の救いの言葉はない。
ケアや医療に関しては、ここ最近良質な社会学の研究の成果が続けて世に出ている。興味を持たれた方は、松木洋人『子育て支援の社会学』や、前田泰樹・西村ユミ『遺伝学の知識と病いの語り:遺伝性疾患をこえて生きる』を読んでみてほしい。ケアは、単純に家族の外に出ていくものでもない。医療の専門知は、私たちが単純に受け入れるものでもない。人間は、そんなものではない、もっと厚みのある存在なのだ。
きのしたしゅう/1986年、大阪府生まれ。大阪市立大学都市文化研究センター研究員。共著に『認知症の人の「想い」からつくるケア 在宅ケア・介護施設・療養型病院編』など。
つついじゅんや/1970年、福岡県生まれ。立命館大学産業社会学部教授。『結婚と家族のこれから』『仕事と家族』などの著書がある。