「あと1週間から2週間だとお医者さまから言われました。調子のいい時は食事も全部たいらげますし、私の名を何度も呼びます。これまで何度も危機を乗り越えてきたので、父には頑張ってもらいたいのですが……」

 その日、キーンさんのご子息であるキーン誠己さんは用件だけ言って早々に電話を切られた。誠己さんの声はいつものなごやかな様子と違い、切羽詰まっていた。突然の訃報に接したのは、その数日後のことだった。

「METライヴビューイング」の劇場前でご子息の誠己さんと

 編集を担当させていただき、4月10日には刊行することが決まっていた『ドナルド・キーンのオペラへようこそ! われらが人生の歓び』。約3年越しで作りあげた本作のタイトルも、信濃八太郎さんによる装丁のイラストも、自らお決めくださり、本が出来上がるまでわずか約1ヶ月というところで、ついに間に合わなかった。本の発売日がキーンさんのお別れの会と重なるなんて、予測だにしなかった。

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日本人として残りの人生を日本の人々とともに生きたい

 キーンさんに初めてお目にかかったのは、「日本人として残りの人生を日本の人々とともに生きたい」という想いを直接うかがうためだった。2011年の東日本大震災を機に日本国籍の取得を表明されたことは日本でも大きく報道された。ハドソン川に面したNYのご自宅までおうかがいした時のキーンさんは、日本文学研究の泰斗というより、冗談や皮肉を交えながら文学や芸術について喋るのが大好きな、チャーミングな少年のようだった。取材がおわると、「明日予定がなければ映画でもご一緒にいかがですか」とお誘いくださり、リンカーン・センター近くの映画館でウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』を一緒に鑑賞した。キーンさんと映画を観られた喜びでいっぱいだったわたしは「面白かったですね」と、とりあえず感想を述べてみたが、キーンさんは「わたしはそれほど感心しませんでした」と浮かない顔をされていた。ウディ・アレンの作品の中では、それほど評価に値しないということだったのかもしれない。

メトロポリタン歌劇場の前で

キーンさんが「残りの人生」で書きたかったこと

 その後、グラビア撮影などでご一緒する機会に恵まれたわたしは、時々キーンさんをお訪ねして、書籍でもお仕事をご一緒したいとお願いにあがるようになった。ちょうど『石川啄木』単行本化の校正を終えられたばかりで「次の研究に取り掛かるまでまだたっぷり時間があります。ぜひご一緒しましょう」とご快諾くださった。次の研究と言っても、近松門左衛門なのか、河鍋暁斎なのか、その時点ではまだ何も決まっていなかった。