角田光代さんが『源氏物語』の現代語訳を進めている。昨年の上巻に続き、11月に中巻が刊行された。角田さんはこの訳業に集中するため、3年前から自分の小説は執筆していない。
「原文、そして研究者による現代語訳と注釈を参照しながらやっています。毎日朝から夕方までコツコツ訳しているのですが、驚くほど進みません(笑)。上巻から、敬語を使わず訳す、と決めているのですが、それがやはり一番苦労している点です。“帰られた”を“帰った”とすると、途端に軽々しくなってしまう」
桐壺帝と身分の低い更衣の間にうまれた光君(ひかるきみ)が臣下に下り、源氏の姓を賜る。数多くの女性と関係を持つが、政敵の娘にまで手を出したことで、須磨に蟄居させられる。しかしほどなく呼び戻され、権勢を取り戻し、最愛の紫の上はじめ、縁あった女性たちを屋敷に住まわせ、この世の春を迎える。ここまでが上巻。中巻では中年を迎えた光源氏が描かれる。華やかな恋愛模様を繰り広げた人々は老いてゆき、次の世代の不器用で、時にぶざまにさえ見える愛憎が前面に出てくる。
「上巻は神話の世界のようで、光君の顔が見えませんでしたが、中巻では、彼が老いて弱っていく中で、ようやく人間に見えてきました。『玉鬘(たまかずら)』では、彼は昔の恋人の忘れ形見を後見しますが、やがて若い女の美しさ、心映えの見事さに恋心を抑えきれなくなります。しかし女の方は、本気で中年の光君を気持ち悪く思い、嫌がる。彼があんなに女性に拒絶されるのは初めてでしょう。自分も老いて醜くなっていくなんて、この人は想像もしなかったんだろうなあ、と思いました。でもそれは、私たち現代人にも分かる気持ちですよね」
『源氏物語 中』では些細な出来事が連鎖して、思いもかけぬ結果を招く。作者・紫式部の筆の運びは、しばしば角田さんの心胆を寒からしめるという。
「『若菜 下』で、普段は疎遠な夫・光君を女三の宮が可愛らしい歌で引き止める。彼は泊まり、宮の密通の相手・柏木の手紙をみつける。面目を潰された光君はどうしても若い2人を許すことが出来ず、悲劇に至る。しかしよく考えてみると、そもそも光君が10代の頃、自分の父親の妃と関係を持った時点から、運命が狂い始めているんですよね」
下巻「匂宮三帖」「宇治十帖」は女三の宮の不義の息子・薫大将を軸に展開する。
「いよいよ神話世界は遠くなり、人間たちのお話になる、という感触です」
『源氏物語 中』
「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」の掉尾を飾る『源氏物語』の中巻。「玉鬘」から巻名のみの「雲隠」までを収録。紫の上、明石の御方、致仕の大臣(元頭中将)など上巻の主要人物が光源氏と共に年を重ねていく。玉鬘、夕霧など第二世代も、ままならぬ現実に対峙する。鋭い芸術論や多彩な衣装描写も読ませる。