明治の洋館建築のこと、オペラのこと、作家の思い出など、様々なテーマが候補に上がった。日本の洋館について一冊上梓してもいいとお考えになるほど、キーンさんの中で特別だったとは思いもよらなかったが、誠己さんはじめ、コロンビア大学の教え子などご縁のあった方々がみなキーンさんの影響を受け、オペラ好きになっているという話を聞くにつれ、キーンさんのもう一つの顔“熱狂的なオペラファン”を世に出したいという思いが強まった。早速相談すると、「できれば残りの人生は好きなことだけに集中したい。オペラに接したことのない人が関心を持つような、入門的要素を含んだオペラ本はいいアイデアかもしれません」とおっしゃられた。
機械オンチでパソコンに向かって怒ることも
キーンさんの『ついさきの歌声は』『わたしの好きなレコード』『音楽の出会いとよろこび』の翻訳を手がけられた音楽評論家の中矢一義さんとともに、月に一度、15時頃に先生のご自宅におうかがいし、2時間ほどオペラについて話をする日々が始まった。中矢さんは、キーンさんとの付き合いも長く、気のおけない音楽仲間でもあった。取材が始まる時刻になると、階上の書斎からゆっくり降りてこられる。時折、機嫌が悪そうな時もあったが(キーンさんはパソコンでものを書いたり、オペラのストリーミングをご覧になるが、ひどい機械オンチで、パソコンがうまく操作できなくなると、パソコンに向かって「ギャーッ!!」とお怒りになることもしばしばだった)、オペラの話題を振るとたちまち笑顔に変わるのだった。取材中、美智子さまのピアノが非常にお上手なことや、トランプが大統領に選出されたとき、立ち上がれないほどショックを受けたことなど、話は尽きなかった。
『源氏物語』より前に出会っていたオペラ
キーンさんのオペラとの出会いは、『源氏物語』よりも前にさかのぼる。コロンビア大学の日本文学の授業でも実はオペラの話ばかりしていたほどで、業界では知る人ぞ知る音楽マニアだ。この本を制作するまでまったくオペラに関心のなかったわたしも、次第にオペラに魅せられるようになった。キーンさんの語り口が平易でわかりやすいのはもちろんのこと、実はオペラについて予備知識がなくとも、三島由紀夫や永井荷風の話、戦争とオペラの関係、古典芸能との比較など、付随して語られる話がめっぽう面白かったのだ。「初心者の方は『フィガロの結婚』など、まず喜劇から始められるのが良いかもしれませんね」とおっしゃった。ドニゼッティ『連隊の娘』をCDでかけると、取材中にも関わらず、つい嬉しくなって踊りだすことも珍しくなかった。そうやってキーンさんが踊り出すと、こちらも俄然、楽しい気分になったものだ。