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キーンさんの終活

 国籍を取得されてから約2年後、キーンさんは自宅近くにお墓を建てられた。キーンさんの字で「キーン家の墓」と彫られており、誠己さんのお兄さんがデザインした黄色い犬「黄犬(きいん)」と、犬の足跡が刻まれているなんともかわいらしいお墓だ。ちなみに象はキーン家の家紋。誠己さんによると、キーンさんは自分たちのお墓を建てることに非常に執着しておられたようで、開眼供養を終えるとホッと安堵の表情を見せられたという。さらに、藍色の筆書きで「鬼怒鳴門」という雅号が入った骨壷を生前、親しくされていた陶芸家に注文されていた。残された人生、そう長くはないと覚悟されていたのだろう、昨年の春にはこれが最後とNYを訪問され、親しかった方々に挨拶をして回られていたし、夏からはCDや本の整理も始められていた。キーンさんはキーンさんなりに昨年から少しずつ終活をなさっていたのだ。

キーン家の墓

 最後にお目にかかったのは、昨年の暮れだった。中矢さんがカラスの全曲集をお土産にお持ちになり、キーンさんを大そう喜ばせた。事前にパパイヤとみかんをご所望されているとうかがっていたわたしは、果物店で買って差し入れたが、季節外れのパパイヤをわざわざリクエストされるのは意外な気がした。よほどお好きだったのかもしれない。夕食時には赤ワインを嗜まれることもあると聞き、今度は赤ワインを持っていきます! と笑ってお別れしたが、それが最後になってしまった。

墓石には「黄犬」の足跡が ©中矢一義

「私たちはいい時代に生きています」

 かつてキーンさんは、日本人の古典離れを嘆いて「『源氏物語』を原文で一生懸命読む必要はありません。そのせいで古典嫌いになるのはあまりにも残念です。現代語訳でいい。まずその作品の面白さを知ることが大切です」とおっしゃっていたが、まさにオペラについても同じことをおっしゃっていたのが印象的だ。「生の舞台も素晴らしいですが、今はDVDもあれば、映画館の大きなスクリーンでも十分に楽しめます。私たちはいい時代に生きています。その賜物を享受しましょう」と。何においても偏見がなく、常に大らかなのがキーンさんだった。

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 亡くなる間際まで、マリア・カラスの歌声を枕元でお聞きになっていたキーンさん。今頃、天国で大好きなカラスと一緒に歌って踊っているかもしれない。