日清食品創業者・安藤百福の歴史から「消えた娘」は台湾でホームレスになっていた〉から続く

「インスタントラーメンの父」として慕われる安藤百福(1910~2007年)には、その存在を公にされていない台湾籍の娘がいた。彼女・呉美和(ウー・メイホゥ、76)が赤裸々に語る、亡き百福と安藤家への切なる思いとは──。

台湾でホームレスとして生活を送っている呉美和 ©田中淳

「父は擬似的な恋人にも等しい存在だった」

 母・呉金鶯の生前は百福への連絡を遠慮していた美和だったが、1971年に金鶯が死去したあとは手紙や電話で頻繁にやりとりするようになった。1972年から77年までは、百福の計らいで毎年のように大阪を訪れている。

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「父は当時、最先端だった東洋ホテルの客室を予約してくれて、ふたりで夜遅くまで、台湾語でとりとめのないおしゃべりに花を咲かせたものだわ。父は取り立てて厳格でもなければユーモアに富んでいたわけでもなかったけれど、『何かを成し遂げたければ自分を信じ、勇気を持て!』と何度も言っていたのは今でも心に残っている」

 時には腕を組んで散歩をしたこともあったという。美和は、昔の恋人を思い出すかのように幸福な表情で百福と過ごしたひとときを述懐した。

「恋人……そうね。私にとって父は親であり、先生であって、擬似的な恋人にも等しい存在だった。親戚には『百福から捨てられた娘』と蔑まれたこともあったけれど、両親の離別や台湾帰国は3歳のころで記憶にはない。むしろ、チキンラーメンやカップヌードルで成功を収め世界的な経営者にのし上がった父が誇らしく、憧れで、誰よりも頼りにしていたの」

1970年代の大阪の街並み ©iStock.com

1977年、35歳の美和が大阪で会ったのが……

 大阪旅行中に東京まで遠出をした際は、パレスホテル(現・パレスホテル東京)に投宿。百福は窓から皇居の森を見下ろしながら「俺は皇室に相当の額を献金したのだよ」と誇らしげに語ったという。

 ただ国有財産法によると、皇室に献金する場合はわずかな例外を除き、国会での議決を義務付けている。現時点で百福の献金を国会で討議した事実は確認できない。

 百福は別れ際に小遣いだけでなく、人生を鼓舞するような内容の本を美和に与えたこともあったという。

 美和は兄たちを大阪行きに誘うこともあったが、既に自身の生活を確立していた彼らは「俺たちを捨てたオヤジなど、今さらどうでもいい」と言って取り合わなかったらしい。束の間の逢瀬は言うまでもなく、百福が台湾に残した家族と接触することを快く思わない3人目の妻・安藤仁子には内緒だった。

 だが1977年、35歳の美和が大阪で会ったのが、百福との最後の邂逅だった。

 美和によると、百福の新任秘書となったK氏が美和と百福の接触を拒むようになったためらしい。もっとも美和の次兄・武徳の妻である呉許秀が台湾日刊紙「自由時報」に証言したところでは、K秘書は毎年のように百福の代理で訪台し、宏男・武徳・美和の3兄妹やその子供たちに金銭を渡すなどして面倒を見ていたという。

©文藝春秋