日本の「脱中国化」で伝統的な中国文化が消える?
とまあ、中国側の書き込みを読んでいるとなかなか笑えるのだが、なかには唸らされる意見の投稿も少なくない。下記の2本の投稿者のプロフィールをそれぞれ見てみると、1人目が古典に詳しい人で、2人目は相当な日本通のようだ。
■包茅子
<日本政府は『万葉集』が典拠だと言っているけれど、後漢の張衡「帰田賦」に「仲春令月、時和気清」という一節がある。ちなみに『万葉集』の表現は「初春令月 気淑風和」。言葉の選び方も句形も、明らかに「帰田賦」からの継承関係がある。
このことは東アジアの他国の国民にある道理を示している。つまり、自分たちの古典をやみくもに信じてはいけない、それらには著作権の意識なんてなかったのだから。漢文化はどこにでもある、同じ文化圏の側に属するのさ。>
(注.投稿時間は4月1日12:33(日本時間13:33)。投稿者自身の知識で「帰田賦」を紹介した可能性が高い)
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■檀信介
<今日公布された新年号は、実のところ非常に考えさせられる政治的・文化的なメッセージだね。日本は645年から唐王朝をまねて年号を使いはじめて、現在まで247個の年号を使ってきた。これらはすべて中国の経典や史書を出典にしてきたんだ(略)。「令和」は日本の有史以来、はじめて中国古典を出典としない年号であって、1400年間の伝統を破るものだ。
『万葉集』の「時に初春の令月にして気淑く風和らぎ」という一節に関して、「年代を遡ればもっと古い中国古典に行き着く」「中国古典研究にかけては中国人にも負けない日本の漢文学者たちは自然にこの語の元の由来まで探り出すだろう」といった具合に僕たちが屁理屈をこねることは可能だけれど、日本の政府は明確に「令和」が日本の国書由来で中国古典に由来していないことを言っている。
今回の動きは、日本の政界や文化界のある姿勢を表している。つまり、たとえ1000年以上の伝統や祖先の習慣を破ることになってでも、年号の命名法を変えるのであると。政治上の深い意味についてはここで多くを論じないけれど、少なくとも文化の視点から言うなら、これは非常によくない前兆だ。
これまで、すでに中国本土では失われた伝統的な中華文化の一部は日本においてまだ残されてきた。でも、非常に悲観的に考えるなら、こういう趨勢のもとでは、それらは計画的にゴミ箱行きにされてしまうことになるかもしれないからね。>