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「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」住民たちが連続殺人犯を匿っていた理由とは

鬼熊事件――「代替わり」大正15年夏の犯罪 #2

2019/04/09

genre : ライフ, 歴史, 社会

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事件発生から42日目、事件は衝撃的な結末を迎える

 山狩りと検索が続く中で、鬼熊は9月18日、出沼の2軒の農家から米と鶏1羽を盗んだうえ、翌19日には別の農家に押し掛け、鶏飯を作らせて食べた。しかし、24日以降、消息は途絶えた。9月28日、警察はそれまでの捜査方針を変更。応援警察官の人員を減らし、狙われていた寅松や忠治らを遠隔地に移動させた。新聞は、忠治が住んでいた四角山という地名にちなんで「四角山退却の忠治 女房と思入れよろしく」の見出しを立てた。

 そして、事件発生から42日目の9月30日、事件は衝撃的な結末を迎える。消防組員が「午前4時ごろ、出沼の岩淵家の墓近くで鬼熊を発見した」と届け出た。警察官が駆け付けると、鬼熊は瀕死の状態で倒れており、兄清次郎の家に運ばれたが、正午前、死亡が確認された。頸部をカミソリで切っていたが、ナスの漬け物など、食べた物を吐き出しており、服毒死が疑われた。

「『俺は熊だッ』と叫んで仁王の如く踏張つた」

 10月1日付夕刊(当時の夕刊は前日の日付だった)各紙は「熊公遂に捕まる」、「天下を騒がした熊 檜山で遂に就縛さる」などと報じたが、唯一、東京日日新聞(現・毎日新聞)は「深夜、うす月の下に 本社記者『熊』と語る」の見出しで、佐原通信部の坂本斉一記者(のち佐原市長)ら2人による鬼熊の独占インタビュー記事を掲載した。その中で鬼熊は「猛烈な気勢を示し『俺は熊だッ』と叫んで仁王の如く踏張つた」とされ、「おれは自分で始末をする」と話したという。

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鬼熊独占インタビューを掲載した東京日日新聞(1926年10月1日付夕刊)

 警察が現場にいた清次郎や消防組員を取り調べた結果、事実が判明した。

 9月25日夕、鬼熊をよく知る消防組の部長・山倉長次郎が、自宅の外に鬼熊がいるのを見つけた。鬼熊は、狙う「敵」が手の届かない所に行ったことから「俺はもうダメだ。自殺する」と言い出した。五木田とは別に、鬼熊が恩顧をこうむった有力者・多田幾四郎も加わって自首するように説得したが、「自首は嫌だ。自殺する」の一点張り。多田らも認めざるを得なかった。

原稿用紙に「ザンネン 岩淵熊次郎」

 坂本記者の手記によると、鬼熊とは面識があり、前から知っていた多田に「鬼熊が来たら会わせてほしい」と頼んでいた。26日夕、多田から連絡があり、翌日、山の中で鬼熊と会った。鬼熊は「世の中を騒がせて申し訳ない。どうせ死刑だし、無期でも監獄に打ち込まれるのはコリゴリだ」と言った。寅松、忠治、向後巡査の名前を挙げ、「早く遠くへ逃げて、2、3カ月過ぎてから彼らの油断を見てやっつければよかった」と話し、坂本が渡した原稿用紙に「ザンネン 岩淵熊次郎」と書いた。

 すぐ自殺すると言ったが、差し入れの焼酎を飲んで泥酔し、熟睡してしまったため延期。翌28日夜、坂本記者が再び会いに行くと、鬼熊はカミソリで首を切って大量の出血をしたものの、傷が浅くて死にきれなかった。首を吊ろうとしてもうまくいかず、決行は再度翌日に。坂本は多田や清次郎と相談。鬼熊の姉婿が自宅から持ち出した毒物ストリキニーネを最中に入れ、持って行って鬼熊に食べさせたという。その後、消防組員も加わって鬼熊を岩淵家の墓前に運び、自殺に見せかけようとしたことも分かった。