「喧嘩を見ては必ずまかり出て弱い方に肩をもつ」
中年男による、痴情のもつれからの単純な凶悪事件でありながら、鬼熊が「名は次第に天下に鳴り渡り、『千葉の鬼熊』と云へば児童走卒も之を口にして一代の人気男となつてしまつた」(捜査資料)のには理由があった。「幼少の頃から牛馬に馴れて居た為に、新馬を調練するのには特別の技能があり、附近の農民に依頼されて新馬を仕込んで遣つたりするので調法がられて居た」(同)。
馬の売買もしており、馬車引きや馬喰(ばくろう)の間では兄貴分的存在。事件発生から間もない時期の新聞も「警察も遂に兜をぬいだ 殺人鬼『熊』の正体」の見出しでこう書いている。
「喧嘩を見ては必ずまかり出て弱い方に肩をもつ。同業の新顔があると、四日でも五日でも手弁当で馬馴らしをしてやる。恩義を受けた人のためには水火も辞せない心意気で、馬車挽仲間でも顔役であった」
時には「ヒーロー」のように懐かしんだ
村人に頼まれれば二つ返事で荷物を運んでやったとも言い伝えられる。どこか「無法松」を思わせる人物像ではないか。
いまも地元では「鬼熊は悪い人間ではなかった」「他人への思いやりがあった」と言う人が多い。人々に親しまれていた上、殺傷したのは恨みを持っていた相手と警察官、消防組員だけ。無関係の人に危害を与えなかったことも大きかった。警察に対する住民の反感が根強かったことも否定できない。それらがその後も人々が「鬼熊」という名前を忘れず、時には「ヒーロー」のように懐かしんだ理由だろう。
不思議に思えることがある。それだけ世間を騒がせた凶悪事件にもかかわらず、鬼熊と被害者の遺族や子孫は、ほぼ全員村を出ず、いまも地域で生活している。言葉を変えればそれは、地元ではいまも暗黙のうちに触れたがらない過去の出来事であることを意味しているのか――。
一種の爽快感を感じさせたのではないか
当時の日本は、3年前の関東大震災からの復興途上にあり、昭和恐慌を先取りした不況が進行。農村では小作争議が頻発していた。
鬼熊事件直後、小作争議を戒めた檄文が千葉県長生郡の各所に張り出された。そこには「小作争議は地主と小作人の共倒れを招く」として「マルクス主義は鬼熊より怖い」と書かれていた(10月6日、東京日日新聞千葉版)。前年の1925年、普通選挙法と抱き合わせで治安維持法公布。事件直前の1926年7月には、小学校卒業者に軍事訓練を課す青年訓練所が設置され、軍国化の足音も近づいていた。
この年、世間を騒がせたのは大阪・松島遊郭をめぐる贈収賄事件と、大逆罪に問われた朴烈と金子文子夫妻の怪写真事件。二大政党化の掛け声の裏で、政友会と憲政会などは2つの事件を利用して政権をめぐる権謀術数を繰り返し、国会は混迷の極に。
政治、経済、社会のいずれも分かりづらくすっきりしない状況で、国民の間に閉塞感が広がっていた。現在と類似しているともいわれる。そんな、時代が大きくカーブを切ろうとする中で鬼熊事件は起きた。
「たった1人で大捜査陣を相手に逃げ回り、翻弄した揚げ句、最後は潔く」。そんな経緯が当時の人々に一種の疾走感や爽快感を感じさせたのではないか。それが「鬼熊」の名をいまに残した理由だろう。
【参考文献】
▽「警察協会雑誌」第315号、1926年
▽内務省警保局「警察研究資料第十四輯 捜査実例集」1927年
▽千葉県警察史編さん委員会「千葉県警察史第1巻」1981年
▽坂本齊一「世紀の鬼熊遂に自殺す」(文藝春秋臨時増刊「昭和の35大事件」)1955年
▽千葉縣香取郡役所「千葉縣香取郡志」1921年
▽多古町「多古町史」1985年
▽新聞各紙
※当時の資料からの引用については、読みやすいように一部の正字を新字に改めた。