文春オンライン

「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」住民たちが連続殺人犯を匿っていた理由とは

鬼熊事件――「代替わり」大正15年夏の犯罪 #2

2019/04/09

genre : ライフ, 歴史, 社会

note

追跡捜査で実施された山狩りは計24回

 清次郎や姉婿、多田、山倉、坂本記者、複数の消防組員が犯人蔵匿、自殺幇助の疑いで取り調べを受けた。当時の刑法では、親族の犯人蔵匿罪は「不可罰」とされていた。結局、千葉地裁八日市場支部は1927(大正2)年2月、自殺幇助罪は問わず、犯人蔵匿罪のみで多田、山倉、坂本の3人を最高懲役6月の執行猶予付き有罪とし、他は無罪とする判決を下した。坂本の手記は最後の部分に不可解な点があり、事件の全容が解明されたとはいえないようだ。

 追跡捜査で実施された山狩りは計24回、小屋・洞窟・空き家などの検索は計25回に上った。従事した警察官延べ6899人、経費は3万3428円で、当時の県警察部年間予算の約半分に達した。現在の金額で約5400万円。警察の人員不足と不手際がその後、県議会でも追及された。

©iStock.com

逮捕が遅れた6つの理由

 事件解決から間もなく、警察は逮捕が遅れた理由をまとめている。

ADVERTISEMENT

(1)現地が原野、密林、開墾地で、包囲区域がおそろしく広大だった。
(2)犯人が辺りの地理に精通しているのに、応援警察官は地理に通じていなかった。
(3)ちょうどその季節は農作物の繁茂期で、身を隠すのにも野宿生活をするにも便利だった。
(4)同地方は政党関係の軋轢が激しく、その前に貴族院議員選挙違反事件を検挙したことがあり、本件についても各種の流言が多く、ややもすると、この機に警察を利用せんとする傾向があった。
(5)新聞通信の特派員50余名も同地に入り込み、ややもすると捜査の敏活を妨げたり、捜査方針の秘密を保つに困難だった。
(6)捜査区域内の「下流民」は一般に犯人に同情を寄せる者が多く、また中流以上の者は後難を恐れて積極的に捜査に便宜を与えるようなことをしないで、犯人立ち回り先の申告も常に遅れがちだった――。

「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」

 これだけ長期にわたる逃走は、誰かの助けがなければできないのでは? そうした声は事件発生間もないころから出ていた。9月2日の東京日日新聞千葉版は、捜索隊から出た疑問として「食を与へる庇護者があるか」の見出しを付けた記事を掲載。翌3日にも「殺人鬼の背後に或る種の影がある」「食を与へる者が多数ゐる見込み」と書いた。

©iStock.com

 消防組員や住民が食料を与え、実質的にかくまうなどして逃亡を助けたことも判明。「鬼熊が来たらメシでも食わせてやれ」という住民の声が新聞でも紹介された。

 鬼熊自身、独占インタビューで「おらが戸をたたくと、たいていのウチでは内密で泊めてくれたり、飯を食わせてくれたよ」と話している。

 捜査資料も認めている。「食事を与へたり、品物を恵んだりした人々は彼に同情をしてか、夫れ共後難を恐れてか、捜査官憲へ届けてくるのは、何れも熊次郎が立ち去つて十数時間も、甚だしいのになると、一昼夜以上も経過した後であつた」。立ち回り見込み先の名簿を作ってみると、2町12村の158軒に達したという。