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「人間ってやっぱり弱いですよ!」(太田光)

 11月11日に生放送された、フジテレビの6時間特番『たけしの日本教育白書』のなかで、太田光は漫才ブームをこう総括した。

「ボクに一番影響を与えたのは漫才ブームなんですよ。たけしさんがいて。それ以前は青春ドラマをマジで見て、感動してたんですね。ところがたけしさんが出てきて。『あの夕陽に向かってダッシュだ……ってどこまで行くんだ!?』っていうネタをやって、ものすごく衝撃的だった。あっ、奇麗事なんだコレって。奇麗事よりも本音を言う方がぜったいに面白いんだっていうのが生まれたんです。世の中は奇麗事じゃなくて、熱血の青春ドラマの世界じゃないんだ、っていうことを教えてくれてボクらは開眼したんです。その後、ボクらがタレントになって、最初から本音だけのアピールしかしていない。今の子供は、青春ドラマを知らずに、そっちから入ってきちゃった。奇麗事を信じていた時代があった。それが野暮だよとたけしさんが言ったわけですよ。ああそうか! ってそこまでは知恵がつくってことじゃないですか。そこからもっと追求していけばいいのに、知恵の入り口って凄く危険なんですよ。たけしさんがやったことは逆説なんだってことを気がつかないと、それをそのまま受け入れちゃうと、それで良いんだと思っちゃうじゃない?」

 これはボクが常日頃、抱く思いと、全く以て共通する。

 この世界に入ってから、ボクより下の世代の芸人のたけしイズムの解釈が嘲笑でしかないことに何度も戸惑ったし、ビートたけしの逆説が分らない若者の多さには本気で呆れている。

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 それはサブカルチャー論にも共通する。

 いつの間にか、サブがメインにあり、カウンターで発言すべきサブカルチャーが正論の如く流通している。

 昨今の太田光が、実にお笑いにあるまじき、まともな正論をぶつ論客となっているのも、本来のメインカルチャーの方が脆弱すぎて、立ち位置としては、正論をぶつ方が、むしろ異端であり、カウンターであるからだろう。

 ヒートアップしたスタジオでは、殿、爆笑問題に加え、久米宏、石原慎太郎がいじめ問題を討議した。

 ここで石原都知事は持論である脳幹論、戸塚ヨットスクールの戸塚校長の説を語ると、そこに異議を唱えた太田光がお笑い持論で噛み付いた。

石原 ボクは日本人の甘ったれというのは裏返すとね、堪え性がなくなったわけね。そういう人間って弱いですよ。ノーベル賞を取った動物学の学者が『人間で幼いときに苦痛、(親の虐待とかではなく)我慢を強いられる事のなかった子供は大人になって非常に不幸な人間になる』と言いますが、私はそのとおりだと思いますよ。今は、暑いといったらすぐ冷房、寒いといったらすぐ暖房、おなかがすいたらすぐ間食するしね。昔は貧困のなかで我慢するという体制が人間を強くした。甘えが跋扈して人間が弱くなった。いじめなんかは簡単に死ぬでしょ? 昔からあるけど子供はそんなに簡単に死ななかった!

太田 時代が違うじゃないですか?

石原 だから、時代が変わったからそういう人間が出てきたわけですよ!

太田 たとえば極端な話で言うと、戦場の中でビンタされても大したことは無いかもしんないけど、教室の中で一斉に全員に無視されたら、戦場の中でビンタされるよりも傷付く人間だっているわけじゃないですか? それは弱いってわけじゃないでしょう。

石原 こらえ性がないしね、それは実際にビンタの方が痛いし、よっぽどツライよ!

太田 それをこらえ性がないと言われると……状況状況で分からないわけだから、人間ってやっぱり弱いですよ!

石原 相対的にこらえ性がなくなったんじゃないですか? 戸塚ヨットスクールの弁護をするつもりはさらさらないけど、あの学校が無残な形で証明したのはね、子供たちの脳幹が弱っているわけね。脳幹っていうのは一番大事な部分ですよ。これが人間の感情や精神を作る、人間が動物として生きていくための敏感な反応というのは全部、脳幹が決める。その脳幹が鈍くなっちゃってる。その代わりにテレビを含めて色んなメディアが情報をどんどんつぎ込むでしょ? そうすると子供は大脳ばかりが発達して、それは林檎の実がたくさん実りすぎて木が倒れるように脳幹もやられてしまう。過剰な情報を支える力がなくなっていると思う。それは人間のひ弱さですよ。大脳生理学的には完全に今の若者はいびつになってきたと思うね。

 太田光は、なおも食い下がる。

太田 だから石原さんのような人達だらけの大人だったら、オレは生きて行けないと思う!

石原 それだったらさっさと死ねよ! 生きていかなくたっていいよ。甘やかされてるよ!

太田 なんでオレが生きていけるかというと、やっぱりたけしさんとか芸人というのは『人間ダメじゃん』と表現してくれるところにボクらは救われたわけですよ!

石原 そりゃそうでしょう。弱さの代弁者ではありますよ。しかし、それだけじゃ本当の芸にならんのじゃないの?

太田 昔の人間は誇りがあったと最近すごく言われるけれども、同時に、昔から落語家がいて、お侍のことを茶化す奴らがいて、どっちもあったじゃないですか?

石原 全然それで結構ですよ。

太田 でも石原さんは、どちらかというとそればっかり……(拗ねる太田)ごめんなさい私だけの討論じゃなかった。(一同笑い)

 後に、テレビ局で、太田光とすれ違った時、

「やっぱり、俺は石原さんは苦手ですねぇ」と語っていたが、多くのボクの世代のサブカル側の人たちは、石原都知事の発言が苦手だ。

 と言うより、その存在に嫌悪さえする人も多い。

 ボクもまた、都知事と番組共演を長く続けているが、その振る舞いに本当に共感出来ないことも多々ある。

 そして、都知事の言い分が、頭ごなしに大人の正論であろうとするから、聞いていて厭になるのだということも分かっている。

 それでも、都知事が代表するような、大人の権威ずくの思考、強さや父性を強調するマッチョ信仰、人はこうあるべきと振りかざすメインカルチャー側の存在や意見がしっかり屹立し、自前の言葉で諭してくれるほうが、あやふやで多様な価値観を認めすぎる今の風潮より、ボクにはすっきりする。

 ボクが、この会話に興味を抱くのは、都知事の言い分も太田光の言い分も、共に、ボクの理に適うからだ。(無論、たけし軍団で、戸塚ならぬ飯塚ダンカンヨットスクールで、しごきを望んだ、ボクが脳幹論を信奉するのも当然のことだろう)

 言ってみれば、文士の一分にも、お笑いの一分にも一理ある。

 そして、伊吹大臣より、お笑いの太田総理の方が、よっぽど自前の言葉で語っているだろう。