「死んだっていいじゃない」(ビートたけし)
ボク自身、思春期の一時期、ビートたけしの言葉に、「生かされている」自分があった。
「死んだっていいじゃない」──。
ある時期、自分の人生について、そんな風に考えていた。
高校生の頃に学年をダブり、一学年下の生徒と高一を2度やりなおしたせいか、クラスメイトと打ち解けることなく、自閉し内向したまま過ごした。
学校に馴染めず、緩慢で退屈な日常がこのまま続いていくことを夢想すると、自分が生まれてきたことを呪うような時期もあった。
青春らしい出会いや恋愛や冒険も無く、うつらうつらと生きてても死んでいるような、ただただ寝て起きて、日々が過ぎていくような日常は、重く辛くむなしく息苦しかった。
そんな死んだような毎日が続くなかで、唯一の楽しみは、木曜日、深夜の『ビートたけしのオールナイトニッポン』だった。
毎週、深夜ラジオのバカ話であるが故、ときおりシリアスな話題を正面から語るときの凄みと心への刺さり具合と言ったらなかった。
それは、あの頃にオールナイトを聴いていた若者なら、誰もが共通の想いだろう。
そして、そういうシリアスな回もあるせいか、番組には人生の進路や悩みを打ちあけるような手紙が寄せられ、それに対し、時折、アドバイスじみて冗談めかして答えることもあった。
そのせいか、答えれば答えるほど、まるで駆け込み寺のように悩み相談がさらに寄せられたのだろう。
しかし、そういう聞き分けの良い兄貴が語るような、ありがちな深夜放送を嫌ったのが、ビートたけしだった。
あるとき、「めんどくせぇよ、一々、俺に相談すんな!」と切り返すと、「悩んでる奴は死んじまえ!」と突き放した。
あの「死んじまえ!」は、当時のボクには実にストレートなメッセージだった。
それは実際、「今の延長上にある、うつらうつらと死んだような人生なら、いっそ人生ごとなくなってしまえ!」との啓示に聞こえたのである。
つまり、今ここに引かれてあるレール……。進学校で受験勉強して大学へ行って就職する。そんな人生を辞めてしまえ! とボクには聞こえたのだ。
まるで幽体離脱したかのように、自分の意識が浮き上がり、気持ちの上で空が晴れ晴れと澄み渡り、今、そこにある風景が変わって見え、すべての迷いが一瞬に消えたようだった。
そこからボクは、大学受験を口実に上京し、ビートたけしのもとへ行くことを決めた。
しかし上京後、実際に弟子志願の行動を起こすまでに、さらに4年間のモラトリアムを費やした。
その時点で、とっくに大学は辞めていたが、田舎へ帰って家業を継ぐかどうかの選択に迫られ、ようやく本来の目的である弟子志願(出待ち)をイチから始めた。
別に自分の昔話をしたいわけじゃないが、ボクが意を決して弟子志願をしていた、1986年の春、ポスト松田聖子と呼ばれたアイドル、岡田有希子の自殺事件があったのだ。
この事件は、まさに自殺の連鎖を呼び、その後の2週間で思春期の少年少女が40人以上、後追い自殺をした。
丁度、当時のビートたけしの住居が、岡田有希子が自殺したサンミュージックのビルの真裏にあり、ボクは憧れの人を、事件のあったその場所で待ち続けていた。
そして、毎日のように続く自殺関連のニュースを聞きながら、
「ここで、今をときめくアイドルが死んで、オレみたいな死んだも同然のボンクラが、もう一度生きなおそうとしているのか……」
と、死生観のようなものを抱いた。
数カ月後、ボクはなんとか弟子入りし、たけし軍団に潜り込んだ。
ボクが飛び込んだ、たけし軍団の世界は、学校などという生ぬるい世界を遥かに超えた、男の戒律社会であり、鉄拳制裁が飛び交い、理不尽な暴力すらもまかり通る、文字通り、いじめ社会だった。
しかし、それをボクは望んだのだ。
そこが軍団であるなら、まるで徴兵を志願するかのように、そのなかに居たいと思ったのだ。
うつらうつらと生きてきた思春期に沁み込んだ負け犬根性、事なかれ主義や臆病風やら、ダメ人間であることなど、ありとあらゆる血を入れ替えるには、他者からの強制、理不尽を受け、自分が耐えうるだけの我慢、忍耐の経験が必要だった。
たぶん、昨今のいじめ問題の発言に、ボクが違和感を持つのは、ただただ、「死ぬな!」と「逃げろ!」だけのメッセージだからかもしれない。
まるで、どこかに、やさしい社会があるように保証しているような、空手形に馴染めないのかもしれない。
何故なら、ボクは、より厳しい、いじめ社会に「飛び込んだ」側だからであり、人生に当たり前のように出くわす困難に立ち向かうタフさの裏付けとなるいじめをより必要としたからだ。
(ゴメン。もっと言葉を正確に言えば、それはいじめではなくしごきだろうけど。そして、今の学校にある、陰湿な、いじめ問題と、むしろ、愛のムチたるしごきを必要としていたと語る、思春期のボクの人格形成の話は別だよ! って言われるのも重々わかっている。しかし、もっと強くしごかれたいと望むほど、自分が不安定で無力で逃げ腰で耐性が無さ過ぎることへの自分への苛立ちの方が大きいことに、今、共感する若者も居るのでは? と思ってしまう。)