カレンダーが変わるたびに思い出す、あの日の野沢氏
野沢社長の号泣シーンは繰り返し報道され、海外にも大きな衝撃とともに伝わった。日本の金融危機を象徴する場面として後世に残る映像となった。
あの質問をしなかったら、あの号泣はなかったのかもしれない。当時の自分の父親と年格好がほぼ変わらない大の男を泣かせてしまったと思うと、いたたまれなくなった。記者として聞くべき質問ではあったが、申し訳なかったという思いがずっと心の中から消えなかった。そして、いつか自分の胸の内を直接、野沢氏に伝えたいと思っていた。
その後、兜町の担当を変わり、様々な業界を取材したが、カレンダーが11月に変わるたびに野沢氏のことが気になった。報道などで野沢氏の消息を知ると、新たな職場あてに、会ってこれまでの思いを伝えたいという趣旨の手紙を送った。返事はなかった。
「野沢さん、いまもお元気でいらっしゃいますか」
2017年11月、私は大阪に転勤した。折しも山一破綻から20年の節目であり、野沢氏を良く知る山一OBに頼んで手紙を届けてもらった。この時も返事はなかったが、しばらくしてJR大阪駅近くの地下道を歩いている時、突然携帯が鳴った。見慣れない「04」から始まる東京郊外の電話番号だった。
「野沢ですが――」
誰だろう。すぐにはわからず、「どちらの野沢様ですか」と聞き返した。「先日手紙をいただいた野沢です」。20年ぶりに聞く野沢氏の声だった。不意を突かれて一瞬おどろいたが、地下街の雑踏の中に立ち尽くして、これまで何度か手紙を送った趣旨、それに込めた自分の思いなどを一気に伝えた。電話の向こうの野沢氏は静かに聞いてくれた。
そして記者としてお願いをした。「山一破綻から20年です。ずっと聞きたかった野沢さんのお話、この機会に聞かせていただけないでしょうか」と。
野沢氏はこう言った。「どこの会社さんにも応じていないんです。申し訳ありませんがご理解いただけませんでしょうか」。さらに「手紙はしっかり読みました。あなたのお気持ちはわかります。よくわかっていますよ」とも。
野沢氏の決意は固く、取材はかなわなかったが、電話の最後に「野沢さん、いまもお元気でいらっしゃいますか」と尋ねた。「はい、おかげさまで何とかやっていますよ」と答えてくれた。明るく優しい声だった。
20年間の胸のつかえがほんの少しだけ軽くなった気がした。