「息子のことはね、そりゃあ、1日たりとも忘れることなんかありませんよ。
でも、あの事故のことは忘れよう、忘れようと努力している。そう努めて毎日を送っている。生きている者は生きていかなければいけませんから」
李さん(仮名)の息子さんは沈没した旅客船、セウォル号で働いていた。
旅客船、セウォル号の大惨事(2014年4月16日)から5年が過ぎた。
毎年、4月に入るとセウォル号に関連した報道が増えるが、今年は少し様相が違った。「青いズボンのおじさん」として多くの人を救助したことで知られたトラック運転手や檀園高校の生存者のインタビューなども報じられた。
大惨事に遭った人たちが少しずつでも話ができるようになってきているのだなあ。そう思い、李さんに連絡をしてみた。
乗組員=悪とされていた事故発生当初
李さんとは、事故現場となった珍島郡内の体育館で初めて会った。下着一枚で逃げ出した船長をはじめ、世論により乗組員=悪とされていた頃で、李さんは体育館の一番後ろにひっそりと座りながら、こんなことを訥々と語った。
「乗船前だったのでしょう。息子から妻の携帯に、大金ではないですが、お金を振り込んで欲しいというメッセージがあったんです。いつもなら、何に使うのかあれこれ詮索してうるさく言うのですが、その時は不思議と何か必要なんだろう、そう思って理由も訊かずに振り込んでやれと妻に言ったんです。今、考えるとあれは三途の川を渡る六文銭だったのかもしれない……。あれこれ問い詰めて振り込まなかったら、ずっと後悔するところでした……」
その後、5月に入ってようやく息子さんの遺体は引き揚げられ、後に、最後まで客の救助に奔走したことも分かった。たくさんの友人が弔問にやってきて、いつも両親の健康を気にかけていたことも知らされた。事故から2年ほどはポツポツとやりとりをしていたが、ある時、こう言われた。「記者さんと話すと、どうしてもあのつらい事故を思い出してしまう」。
久しぶりに連絡をすると、李さんの声には力があって、元気な様子が伝わってきた。うれしかった。けれど、今回も李さんには同じことを言われた。
「セウォル号の話はもうしたくないんだよね。他のことなら、いつでもなんでも話できるんだけどさ」
生存した高校生たちはいま
セウォル号沈没事故では476人の乗客らのうち304人が犠牲となり、そのうちの250人は修学旅行で済州島に向かっていた檀園高校の高校生だった。
事故があってから間もなく高校近くに設けられた生徒の合同焼香所を訪ねると、どこか幼さを残した遺影がずらりと並んでいた。あまりの夥しいその数に胸が押しつぶされそうになった。
この事故では自力で脱出して助かった生徒が75人いた。当時、亡くなった生徒の父親に話を聞いた際、こんなことを話していた。