言葉が遅く小学校は1年遅れで入学した男性の漫画家
男性の漫画家においても、発達障害の特性を持つ人は少なくない。
水木しげる(1922~2015)は代表作『ゲゲゲの鬼太郎』によって国民的な漫画家になり、わが国漫画界のレジェンドといってもよい人物である。妻の回想録『ゲゲゲの女房』を原作としたNHKの朝ドラも放映された。水木の故郷である鳥取県では米子空港にも鬼太郎の名前がつけられ、空港の売店には数多くの鬼太郎グッズが並べられている。
水木は大阪で出生し、鳥取県境港市で育った。水木は、変わった子供だった。幼児期に言葉の遅れがあり周囲からは知的障害者かもと思われて、小学校は1年遅れで入学した。
学校では好き放題をしていた。いつも朝寝坊をして毎日のように遅刻した。授業中も寝ていて勉強はせず、ケンカばかりしていた。仲間の間ではガキ大将的な存在で、隣町のグループとの戦争ごっこに明け暮れた。
子供の頃の水木は、ものを集めるのが好きだった。昆虫採集に加えて、海岸の漂着物、藻や石などをたくさん集めた。新聞の題字集めに凝ったこともあった。1度夢中になると、飽きるまでやめられなかった。
幼少期からADHD的なおおらかさと集中力をもっていた水木しげる
また、水木は絵が好きだった。紙切れとエンピツかクレヨンがあれば、いつも絵を描いていた。主に風景画を描いていたが、絵物語を描くこともあった。高等小学校の頃には絵画の才能が認められ、1日中絵ばかり描いていたこともあった。このようなADHD的なおおらかさと過剰な集中力が、水木の創造力の源泉だったのであろう。
なお、水木の父親もユニークな人物だったようだ。早稲田大学では勉強はせず、歌舞伎や映画に熱中し、故郷の堺港に船を浮かべてドンチャン騒ぎをしたこともあった。卒業後、商売を始めたが失敗し、大阪で会社員をしていたが、勤務時間中に映画をみていたのが社長にバレてクビになる。境港に帰って銀行に勤めたが、夜は芝居小屋を借りて映画の上映もしていたところ、やがて銀行もクビになった。その後は保険会社に勤めてジャワ支店に海外出張したり、米軍の通訳をしたりして暮らしていたという。