問題を起こしてばかり、さまざまな職業を転々とした
高等小学校卒業後、水木は大阪で働きながら絵の勉強をした。当初は印刷所の住み込みをしていたが、問題ばかり起こすため短期間でクビになり、版画店に転職した。
転職先でも、水木は何をするかわからない危険人物として扱われ、版画の仕事はさせてもらえず、仕事は使い走りの雑用ばかり。それでも水木の仕事ぶりは不良とみなされた。
勤務中でも、水木は自分の興味のあることを優先した。太鼓屋の店先で大きな木の筒に皮を張っているのを見かけると、自転車を止めてじっと観察してしまう。そのため配達物が何時間も遅れてしまい、社長からは「使い物にならない」と言われてクビになってしまった。その後も職を転々とした。
1943年、水木は召集されて陸軍の兵士として戦時下のラバウル(パプアニューギニア、ニューブリテン島)に出征した。空襲の中、水木は命の危険を感じることもなく、爆弾が炸裂する光景をうっとりと眺めていたというエピソードが知られている。だが、最終的には爆撃による負傷で左腕を失ってしまった。
復員してからもさまざまな職を転々とした。染物工場の絵付け、闇物資の買い付けや魚屋などをするが、どれも長続きはしなかった。単純作業は苦手で、しゃべってばかりいて、よく怒られた。
元来絵を描くことが好きだった水木は、26歳のときに一念発起し、美術学校に入学する。当初は入学資格がないと断られたが、直談判して夜間部に入学を許可されたのだった。だが、最終的には生活に困窮し、中退している。
こうしてさまざまな紆余曲折を経た後、水木は紙芝居作家をへて、漫画家としてデビューした。彼の描いた妖怪のキャラクターたちは、今でも多くの人に愛されている。