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「歴史家」保阪正康が明かす「フリー独立前、20代に電通PRセンターで見聞きしたこと」

保阪正康インタビュー #3

2019/06/30
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「金になる」政治とPR 広告は“虚業的”だった

保阪 だけど広告やPRは手でつかむ感じがなくて、虚業的でしょう。あるとき、日本人にチョコレートを日常的に食べさせるための戦略会議がありました。当時まだチョコレートは高く、行き渡っていなかった。そうしたら、アメリカに留学していた人が、「バレンタインというのがあって、そこでチョコレートをやり取りするんだよ」と言うので、「じゃあ、それ日本にも定着させよう」となった。

――えっ、ではバレンタインにチョコレートの習慣はそのとき……。

保阪 発端はその会議だと思う。思想信条にかかわるものはやらないといっていたけど、その後、同期生に聞くと「やるよ。政治は金になるんだよな」なんて言っていました。23、24歳でそういう社会を見ちゃった。それがものすごく嫌になってね。その後、朝日ソノラマに就職しました。給料は半分になったけどね。でも、ものを作っているほうが楽しかったです。26歳から29歳までのことです。

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――これがある意味天職というか、ぴったり合っているというふうに思われた?

保阪 そうですね。僕は高校時代から、物書きになるか映画のシナリオライターになりたいと思っていて。一応進学校にいたんだけど、ほとんど勉強しないで、映画を見たり、好きなことをやっていました。

――数学や物理の授業があると、学校に行かないで映画館に行っていたとか。

保阪 毎日じゃないですけどね。親父が旧制中学からずっと、戦後は高校の数学教師をやっていたんですよ。口を開けば「数学がすべての学問の基礎だ」と言うんです。ご飯を食べている時も。僕は頭に来ちゃってね、数学だけは絶対やらないと決めて。

北大生の唐牛、中学の先輩・西部邁との出会い

――よく文系の人に多い数学嫌いというよりは、どちらかというと親に対する反発で。

保阪 親父は、僕に「医者になれ」「先生になれ」とか言ってよくケンカしていましたけどね。僕はやっぱり物書きになりたかった。それで、高校3年のころ、僕は受験勉強もしないで、北海道シナリオ何とか会という北大生が中心のサークルへよく行っていました。そこに北大生の唐牛(健太郎)もいましたね。

 さらにさかのぼると、僕の中学の1学年上に、西部邁がいました。中学校の頃は2年間毎日、西部と朝夕2人でいろいろな話をしながら越境入学で通ったんですよ。

 

――具体的に、どんな会話をしていましたか。

保阪 彼は授業で聞いたことを僕に話すんです。例えば「お前、人間とサルの違いは知ってるか?」と言うから、僕が「毛が3本足りねえんじゃねえか?」と返すと、「違うよ、お前。生産手段を持ってるかどうかだよ」と言う。それから「社会というのは矛盾だらけだと言うんだけど、何が矛盾かお前分かるか?」と言うから、「いや、僕は分からない。矛盾って何?」と返すと、「それはどうも階級っていうものがあるんだよ」。そんな調子で、階級的矛盾なんて聞いたのを今でも覚えています。長じて彼と会った時はいつもその話をして、「俺はそんなこと言った覚えはねえ」と彼は言っていましたけどね。

聞き手・辻田真佐憲さん(左)

――生産手段や階級という話題は、ある意味で時代を感じるといいますか、マルクス主義的ですね。

保阪 通っていた札幌市内の中学は北教組の強いところで、教師は共産党系が多かったと思う。「君らは革命のために生きるんだ」なんて言う先生がいたからね。昔は「天皇のために生きるんだ」と言われていたのと同じなんだと、のちに気づくけれども。

――そういった教師の共産主義的な発言については、当時どういうふうに思われていましたか?

保阪 母親は幼児教育に携わっていて、共産党員ではなかったけれど、戦後わりとすぐに「もう戦争はこりごりだ」「共産党の人は何年も牢屋にいたんだって。偉いね」とよく言っていました。一方で親父は共産主義が大嫌いで。親父がいない時に、母親は僕に対してそういう話をしていましたね。