結論から言えば共産主義は、高校の時に大嫌いになりました
――保阪さんは5歳で終戦を迎えた世代です。思春期のころ、影響を受けた本などはありますか?
保阪 たくさんありますよ。一つ挙げるなら『原爆の子』という本。広島で原爆を体験した子供たちのことが書かれていて、衝撃を受けました。親父は横浜出身だったので、家では朝日新聞と北海道新聞を取っていたんですけど、1日遅れで届く朝日新聞には「ストライキ」という言葉がいっぱい出てくる。親父にストライキって何かと聞いたら……僕は野球のストライクと同じかなと思っていたんですけど。「そんなことを子供は知らなくていいんだ」と。政治的にませている子は小学校時代から結構いたし、母の話からも影響を受けて共産党はすごいと子供心に思っていましたよ。ただ、結論から言えば共産主義は、高校の時に大嫌いになりました。
――それは、どうしてでしょう。
保阪 僕らの頃は教師だけでなく、高校生の中にも共産党員がいたんですけど、例えば「今日はなぜデモをするのか、君らに説明したい」と言ってくるんですね。話を聞いていると、革命を経て社会主義になれば幸せになるという話。そういうような言い方が、僕はすごく……幸せになるとかそんなことはあんたに決めてもらう筋合いはない、と思ったんですよ。要するに見せかけの会話なんですよ。つまり、政治的なことに意識を向けていない人たちをただ「幸福になれる」と説得している傲岸な雰囲気を何となく感じた。階級がなくなれば搾取されなくなるとか、そういう会話がものすごく偽善的に思えたんです。
学生運動が持っている“ある不純さ”に気付いた
――大学に入った時はブントに与したように、新左翼のほうにシンパシーがあったそうですが。
保阪 新左翼の連中は、何というか体育会みたいなところがあった。要するに、革命を起こすためにはもっと街頭暴力主義で行かなきゃいけないんだと言って、デモからはみ出て警官を殴ったり蹴ったりしながらデモをするという時代だったんですよね。何だか知らないけど、革命が起こるのは前提になっていたから。僕らは若いから、暴力革命をうたっていたブントが一番単純に思えた。やっぱり、暴力革命じゃないと革命なんか起きないと。デモにもよく行きましたけどね。それだけじゃなくて、僕はマージャンもやったし、芝居の演出や創作劇もやっていた。最終的に学生運動が持っている“ある不純さ”に気付くんです。
――不純といいますと?
保阪 それは、唐牛がブントの指導者として、同志社に来た時のことです。「お前なんだ、同志社に来たのか」と言われて、僕と二、三立ち話をしました。その時、「お前、深入りするなよ」と言ったんですよね。つまり、運動に深入りするなよと。その言葉は、唐牛が言ったから理解できるんですが、ブントは東大至上主義だったわけです。結局のところ官僚主義なんですね。左翼運動にも東大至上主義の面があったということですよ。
唐牛はスラッとしていて格好よかったし、北大で引っ張られてきたんだけど、自分は東大が指導しているブントの、ピエロみたいに担ぎ上げられていることを分かっていたんですね。西部もどこかに「あいつは東大の犠牲者になったんだ」と書いているはずです。だから唐牛は僕に「お前、私立なんかでこんな運動に入っていたら、抜けられなくなった兵隊の一人にすぎないよ」と言おうとしたんだと、今になって思います。