テロに参加した農本主義者、橘孝三郎との対話
――なるほど。今のは左翼側の話ですけれども、一方で、規模は小さいかもしれませんが三島由紀夫のような右翼側の運動というのもあったと思うんです。当時、そちら側については、どういう風に見ていましたか?
保阪 右翼といっても3グループあると僕は思っていました。暴力団右翼、それから神道系右翼。ここには神社本庁の葦津珍彦氏などがいました。それから最後に、北一輝や橘孝三郎のように理論を持っている人。
――2冊目の著書『五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』を書き進めるなかで、橘に何度も話を聞かれていますね。
保阪 そうです。何のつてもなかったので、水戸に暮らしていた橘孝三郎の住所に手紙を出したら、彼から原稿用紙1枚の真ん中に「諒解」と2文字だけ書いた返事が来ました。
僕は1年半くらい、月に2回か3回通いました。橘孝三郎とは五・一五事件のテロに参加した農本主義者というふうに世間は見ているし、実際にそうだと思うけれども、しかし、橘は大正時代に水戸に文化村というのを作って、文化度の高い活動をしながら自立していることで、雑誌にも取り上げられたことがあったんです。ところが農業恐慌に遭って、橘はだんだん右傾化していく。そしてテロに加担するんですが、そのプロセスに僕は興味を持ちました。
これまで僕が会った何千人の中に、やっぱり7~8人からは一生を変えるほどの影響を受けたと思いますが、一人目は橘孝三郎だったと言えるでしょう。橘孝三郎は、毎回僕の取材に4時間くらい応じます。そしてずっと聞いていて、「君の質問は、戦後の民主主義に毒されている。今度来る時はベルクソンを読んでから質問しろ」などと言うんです。仕方がないから読んでいくんですけど。
右や左ということではなく、教養人としての発言
――ベルクソンというのはフランスの哲学者ですよね。なんでベルクソンなんでしょう。「『国体の本義』を読んでこい」とかならわかりますが。
保阪 僕としては、なぜ大正時代の理想主義者が右翼になったのかと、その変わり方に興味を持っていました。橘は天才的な人で、若い時から英語はもちろんフランス語、ギリシャ語も読めたようです。マルクスも、全部ではないけどもちろん読んでいた。それでベルクソンは、人間の心理とか考え方というのは行動に出るわけだから、その行動を見ることによってその心理を分析しなさいというようなことを書いているんですね。彼がベルクソンを持ち出してきたのは、五・一五事件の決行者の行動を理解するために、ということが言いたかったんじゃないかと思いますよ。
――つまり、右や左ということではなく、教養人としての発言だったと。
保阪 まさに教養人でしたね。それから「君、ずっと聞いていると、古事記、日本書紀なんて何の興味もない世代だな」と言ったりするんですね。「今さら読めとは言わないけど、どんなことが書いてあるか含んだうえで質問しなさい」と。僕は橘のところへ通ううちに、ものすごくそうやって教えられた。取材の時にどう振る舞うのか、ということも。