昨今、俳優・映画製作者・芸能人たちが政治的な発言をすると、そのことがネット上などで物議をかもす――というケースが増えてきた。
政治信条は人それぞれにあってしかるべきだし、それに伴い論争が起きるというのも、民主主義国家として健全なことだと思う。が、最近の傾向として憂えているのは、それが感情的になり過ぎているということである。政治信条に対する論争ならあくまで、そこに絞って展開されるべきものと思うのだが、すぐに人格攻撃とかに走ってしまいがちだ。それでは議論にならない。
そうした中には――政権寄り、反政権、どちらのスタンスにしても――その発言をした俳優や製作者の作品そのものを否定するケースも多い。またその逆に、その発言を理由に礼賛する、という場合もある。
もちろん、自らの政治的スタンスが作品に込められていることも決して少なくはない。でも、それは作品に接する上でさほど重要ではない。そう筆者は考えている。大事なのは、映画として面白いかどうか。それだけだ。いかに高尚なメッセージを込めていようとも、映画として面白くなければ、それは失格なのである。
今回取り上げるのは『小林多喜二』。昭和初期に「蟹工船」など、労働者階級の悲惨な現実を書いた小説家・小林多喜二の一生を追った作品で、当時非合法だった共産党での反政府運動に身を投じた多喜二が、警察によって拷問死するまでの様子が描かれている。
これだけ読んでも分かるように、政治的スタンスはバリバリに表立っている。しかも、実際に長らく共産党系の上映会でしか観る機会がなかった、プロパガンダ的要素の強い作品でもある。おそらく今の状況下では、そうした政治的なメッセージだけで賛否が語られてしまうことだろう。
ただ、だからこそ言っておきたい。この映画は「面白い」と。前回取り上げた山本薩夫と並ぶ「左翼系エンターテイナー」の巨頭、今井正が監督しているだけのことはある。
たとえば。冒頭の多喜二逮捕のシーンの『仁義なき戦い』ばりの手持ちカメラの迫力、多喜二を演じる山本圭を本当に逆さ吊りにした上に本気で棒で叩かせて傷めつけた拷問の痛々しさ、イラストを使った回想の温かみ、時おりナレーター(横内正)が登場して歌や芝居を織り交ぜる演劇的演出、そして恋人との海辺での逢瀬をはじめとする美しい映像の数々――見事に「エンターテイメント」なのだ。政治的部分のみで語られて終わるとしたら、あまりに惜しい。
映画に接する時は、ご自身の政治スタンスをいったん置いて、エンターテイメントとして向き合ってほしいと思う。