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「胸元のファンタジスタ」雅子さま ご成婚前の「スカーフ」報道と国民との“距離感”を思い出す

2019/07/16
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雅子さんのファッションをメディアがこぞって取り上げた理由

 当時、週刊誌の記者をしていた私は、雅子さんのファッションに関する記事を書いた。

 読み返してみた。雅子さんが小和田邸を出るたびにカメラが追うこと、それを女性誌やワイドショーが毎日のように特集することに触れたのち、「宮内庁からは、お妃教育のたびに写真を撮ることをやめてもらえないか、というお願いがマスコミ側にあり、『本人が衣装を替えるのにプレッシャーを感じている』という事情も伝えられた」と書いていた。

 皇太子妃になられてからの雅子さまを思うと、興味深い記述だと思う。自分の記事を興味深いというのもおかしな話なのだが、ここから「長いトンネル」の話になるので続けさせていただく。

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婚約会見当日の1993年1月19日、自宅を出発する小和田雅子さん ©JMPA

 お二人のご成婚は93年6月9日。それから10年。雅子さまは2003年12月から、公務を休まれた。「適応障害」という診断名が発表されたのは、翌年7月。

 その2カ月前、皇太子さま(当時)が「雅子は皇室の環境に適応しようと努力してきたが、そのことで疲れ切ってしまった」という旨を述べた。闘病が長くなり、写真を撮られることが苦手だという雅子さまの情報も伝わってきた。外務省勤務時代から「お妃候補」としてカメラに追いかけられ、トラウマになっているようだ、と。

 正確な情報か、定かではない。だが、雅子さまの闘病を知った上で我が記事を読み返すと、「宮内庁からの撮影中止依頼」が重いものに感じられる。

 同時に、こうも思う。雅子さんのファッションをメディアがこぞって取り上げたのは、当時の国民がそれだけ期待していたからだ、と。

©JMPA

 日本中に、ウキウキした気分が広がっていた。きれいで、超優秀な人が皇太子妃になる。小和田邸前の雅子さんの写真を見るたび、みんなが明るい気持ちになっていた。

 適応障害と発表され、雅子さまの写真はごく少なくなった。公務でのお出ましより、不登校になりがちの愛子さまに付き添う様子ばかりが報じられた時期もあった。その頃の雅子さまは、グレイのパンツスーツが多かった。明るい気持ちにはなりにくかった。

 病名発表から13年経った17年、天皇陛下(当時)の退位が決まった。以来、雅子さまは徐々に活動の幅を広げていった。だが、皇后という激務に雅子さまは耐えられるのだろうか。そんな思いを心の隅に抱え、平成の終わりを過ごしたのは私だけではないはずだ。