小泉の発言から「私」が消えている
「誰かの言ったことを気にして、本当はやりたいことや言いたいことがあるのに、何か言われることを恐れたり、SNSやツイッターとかで炎上するとか、何か言われたら叩かれるとか、そういったことを気にする時代かもしれないけど、気にしない。私もよく叩かれるけど、叩かれてもやりたいことが明確だと自分が生きたいように生きられる。
それに、出る杭は打たれにくい。自分らしいスタイルを貫いている人は、人の言うことを聞きません。言い方を変えれば、その人は自分のスタイルを持っているということも言えるんです。私はそういう一人ひとりがもっと多様で生きやすい日本でありたいと思います」(7月10日、滋賀県大津市での演説より)
自分語りが多いのは、小泉の演説の特徴だ。それでも、かつてはあらゆる人々に「私のことを言ってくれている」と思わせる点が多く、それが強みになってきた。選挙期間に入り、永田町から離れている時間が長くなるほど、目線が低くなっていくのがわかる。言葉も磨かれ、物語の中で語られる「普通の人々」が増えていくという面白さがあった。
しかし、今回はこれまで30回近く現場で聴いても、彼の発言の中から「私」が一度も見いだせないでいる。むしろ、地元の若手議員が前座として行う演説のほうが、生活実感に富んだ視点が多いのだ。
地べたを這うように地域を歩いているのだろう。寝たきりや認知症、ひきこもりにしろ、子どもの貧困にしろ、どうにも手に負えず、人には言えずに苦しんでいる人々に寄り添おうとする言葉も、たまに聞くことができる。
だが、それも彼が会場に到着したとたん、黄色い声でかき消されてしまう。
私は困惑しながらラストサンデーの演説会場に立っていると、耳を疑うような発言が彼の口から飛び出した。
写真=常井健一