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「国際政治学者」の先駆け・舛添要一 「読売でもだめ、産経や『正論』に書いていた」“右派論者”時代

舛添要一インタビュー #2

2019/08/01
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読売でもだめ、産経や「正論」によく書いていました

―― 『都知事失格』の中で、現在の日本社会は「右バネが効き過ぎている」、「健全な保守」が必要という旨を書かれています。当時と比べると、今は極端にブレているという風にお考えですか?

舛添 一つ例を挙げますと、あの頃の新聞で私が何か書いて出せるところは産経しかなかったんですよ。朝日、毎日なんてお呼びじゃなかった。「こんな右翼の学者の見解なんて掲載できるか」というので全部お断りでした。

――当時は右派論者として認識されていたんですね。読売でもだめだったんですか。

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舛添 読売でもだめですね。だから、産経新聞だけで。「正論」にもよく書いていました。

 

――なぜ保守というか、右翼という扱いになってしまったんですか?

舛添 憲法9条改正論者だったからです。2005年、私が事務局で取りまとめた「自民党第一次改憲草案」は1項を変えず、タカ派色を抑えて作ったものでしたが。ヨーロッパから帰国した当時、進歩的文化人と言われていたリベラルの人たちのことを批判していたのも影響していると思います。

 今の産経新聞から見ると、今度は私が左翼になっているでしょうね。私の発言や思想は変わっていないのに、かつて右翼で今左翼って、何なんでしょうね。

まるでヒトラー治世下のドイツみたいだった東大紛争

――文化人として著名になる前、学生時代から研究者時代のお話も伺いたいと思います。舛添さんは、1968年の大学紛争の頃、東京大学の2年生ですよね。

舛添 東大紛争の時に、「法と秩序」が存在しない社会はこうなるのか、という縮図を見ました。機動隊の介入を阻止した結果、その中には日本の憲法や刑法が全く機能しない社会ができあがった。ゲバ棒なんです。力があるほうが勝つ。まるでヒトラー治世下のドイツみたいなものです。

 その時私が思ったのは、『ユートピア』を書いたトマス・モアのことです。つまり、文明社会は武力で自分を守るわけにはいかない、法律で守るしかないと。学生で、時間はたっぷりありました。「こういう社会にしてはいけない」、まずは勉強したいと思ったんです。

 

「海外に行ってすいません」と始末書を書いてフランス留学へ

――なるほど。その後、学部卒で法学部政治学科の助手に採用されますね。それから1973年にフランス留学にこぎつけるまでに、始末書を書かされるなどひと悶着あったようですが。どうしてそんなことに?

舛添 私は、先生と同じドイツをやってもつまらないと思って、隣の国であるフランスに行きたいと考えていました。ところが、誰もフランスのことを教えてくれる人がいない。仕方がないので、パリ大学のある先生に「勉強したい」とだめもとで手紙を書いたところ、「すぐ来なさい」という返事をもらいました。

 しかしあの時代、約50年も前に東大の教授もまだ海外へ行っていないのに、助手の分際で、20代で行くとはけしからん、という雰囲気がありました。彼らは皆、文部省のお金で留学していたんですよ。それは50歳を過ぎて、60歳近くならないとお金が出ないものだったので、退職間際のお土産みたいな感じでした。私が今でも自慢に思っているのは、文部省のお金で留学に行ったことがないんです。フランス、スイスにはそれぞれの国から招かれて、ドイツにはアメリカのお金で行きました。

 

 まだ自分も行っていないのに先に行くとはけしからんと、「あいつをクビにしろ」という議論が教授会で起こっちゃったんです。すると「フランスに行かないと勉強できない」と擁護した先生もいたようで、クビと留学を足して2で割って、休職扱いになりました(笑)。

――休職は、軽い処分を受けたということなんでしょうか。

聞き手・辻田真佐憲さん

舛添 「海外に行ってすいません」という始末書を書いて出て行ったというね。行き先は、パリ大学大学院の国際関係史研究所というところでした。フランス政府の奨学金で行ったのですが、私費留学とは比べものにならない破格の扱いで、「フランス政府の留学生は貴族だ」と言われていたくらいです。学生食堂で1000円くらいのフルコースの食事を100円チケットで食べられるし、病気になっても面倒を見てもらえる。非常に恵まれた環境でした。