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「国際政治学者」の先駆け・舛添要一 「読売でもだめ、産経や『正論』に書いていた」“右派論者”時代

舛添要一インタビュー #2

2019/08/01
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戦後の異端・ペタン元帥の側近に聞き取り

――フランスでは、色々な人の聞き取りをされていたそうですね。レオン・ブルム人民戦線内閣の空軍大臣ピエール・コット、ド・ゴール政権の司法大臣ルイ・ジョックス、そしてペタン元帥の官房長官ルイ=ドミニク・ジラールなど。

舛添 これも、政府の留学生ということで便宜を図ってもらえたことが功を奏したと思います。フランスの国民議会、衆議院に当たるところは、国会の中に図書館があるんですが、パッと上を見るとドラクロワの天井画なんです。蔵書もすごかった。私が研究のために通っていると、「どこかで見た人だな」と。ド・ゴールの右腕だった人物が現役を退いた後、勉強のために本を読みに来ていたんですね。それで知り合うことができました。

 ペタン元帥の官房長官には、人づてに紹介してもらって自宅で会うことができました。ペタン元帥の姪御さんが奥さんで、お茶を淹れていただいて。

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――ペタン元帥の側近だった人というのは、戦後のフランスではすごく生きにくいというか、大変だったでしょうね。

舛添 異端ですからね。ペタン元帥の弁明のための書籍を執筆していましたけど、そんなに売れるはずもない。要するに、私は片一方だけ、ド・ゴール派だけに固まらないで両方から見ようとしていたのだと思います。もしフランスが、ポーランドやルーマニア、チェコのようにヒトラーの直接統治になっていたら――。そう考えると、ペタン元帥はよく裏切り者と言われるけれども、少なくとも中に入って間接統治をやっていた。戦後はド・ゴール史観で固まっているので、抵抗、レジスタンスをやらなかった人は悪者になっているのですが、反ド・ゴール派に会えたというのはよかったと思っています。

『舛添要一の6カ国語勉強法』という著書

――1997年に出版された『舛添要一の6カ国語勉強法』という本があります。フランス語でコミュニケーションが取れたことは、研究をするにしても大きかったのでしょうか。

舛添 そうですね。習熟度の度合いはもちろん違いますけれども、言葉というのは新しい文化に対する扉だと思うので、有用だと思います。私は、まず英語を義務教育で勉強して、2番目はロシア語なんですよね。高校生の時にロシア語を習っていたんです。3番目がフランス語。4番目がドイツ語。それから、スペイン語、イタリア語かな。なぜロシア語をやりたいと思ったかというと、トルストイが大変好きで、原語で読んでみたいと思ったから。それで、ソ連人の先生にロシア語をずっと習っていました。

 

――6カ国語を話せるということは、政治家をやるにしても役に立ちましたか?  

舛添 一番大きかったのは、東京五輪を準備する過程で、非常に役に立ちました。私が2014年の2月初めに都知事選挙で当選して、その月末のソチ冬季五輪の閉会式にどうしても行かなければならなかった。IOCとの関係を良好にしておくためですね。IOC会長のトーマス・バッハさんはミュンヘンの人なんです。ソチでバッハ氏に会った時、ミュンヘンなまりを交えて話しながら、会談が終わって2人で肩を組んで歩いてきた様子に、都庁の職員が驚いていました(笑)。バッハ氏が東京に来られる時も、大体2人ではドイツ語でしゃべっていて。さらに創立者のピエール・ド・クーベルタンに敬意を表して、オリンピックの第1公式言語はフランス語なんです。第2が英語で、第3はその国の言葉。だから、そういう意味でも役に立ちました。
 

『舛添要一の6カ国語勉強法』ほか、舛添氏の著書

孫文からヒトラーの本まで書いた私は「ジェネラリスト」

――同書では、日本ではスペシャリストが尊重され、「ジェネラリストを馬鹿にする風潮すら見られる」とも書かれています。

舛添 私は孫文の本からヒトラーの本まで書いていますし、基本的にジェネラリストなんでしょうね。日本にはスペシャリストが大勢います。ただリーダーになるなら、例えば総理大臣もそうですが、何にでも答えられないといけないです。一つのことを専門的にやるよりも、薄くてもいいから幅広く対応できるというのがリーダーの素質とも言えるでしょうね。 

――近年でも、「専門のことは専門家に聞け」「あれもこれも語る評論家は要らない」という人がいます。

舛添 専門家は必要です。ただ、医療の世界でもホームドクターがいるでしょう。そういう医者が、もしもの時に専門の大学病院に適切につないでくれる。社会や政治の問題でも、全体を俯瞰してくれる、ホームドクターみたいな人がいたほうがいい。私は、ジェネラリストがますます必要になっている気がします。