『119』(長岡弘樹 著)

『教場』シリーズで警察学校を舞台にしてきた長岡弘樹が、今度はとある消防署に勤める消防士たちを巡る多彩な心理劇を描いた。

 犯罪の絡む警察ものなら、犯人の動機や心理が問題となるが、火災や救急という物理的事象を扱う消防署でこれほどの多様で複雑な心理の絡み合いを展開できるとは思いもよらなかった。

 いやもちろん、事件は起きる。その謎が解かれる。その意味では正統なミステリーである。しかし、消防士が主な登場人物となるミステリーとなれば、誰しもが想像するだろうような、たとえば、事故に見せかけた放火事件を消防士が見破って犯人を追い詰めるといった類のものとは一線を画する。

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 そもそも、結末近くになるまで、なにが解かれるべき謎なのかがわからない篇もある。たとえば、第八篇「フェイス・コントロール」は、ある消防士が同僚にあてて書いた手紙を自分で声に出して読むという設定になっている。篇の全体が長い一つの独白なのだ。

 こうした形式は読者に対する情報提供を自然に制限する。登場人物同士が既にわかっていることについてはわざわざ語らないからである。こうした手法を通じて、謎と真相とが同時に少しずつ明かされてゆく。この手紙の悲愴な語り口は一体なんなのか、そもそもなぜ手紙なのに自分で朗読しなければならないのか。最後の最後までわれわれは宙吊りにされ、結末ですべてが氷解し、一息にカタルシスが訪れる。巧みな手法だ。

 あるいは最終篇「逆縁の午後」では、親子して消防士となったものの、息子の方が殉職し、父がお別れの会で長いスピーチをする。これまた途中まで独白であり、われわれはその聴衆とともに少しずつ息子の死がたんなる殉職でないことを知るが、しかし、それもまだ真相には及んでいなかった。何重にも張られた伏線を回収してゆくうちに、新たな真相が見えてくるのだが、その真相のレベルが異なるのだ。一段、一段と深いところへ降りてゆき、人間の心理の複雑さ、業の深さを味わうことになる。

 蘊蓄の豊かさも魅力の一つではあろう。一種の職業小説として、消防士という仕事の裏側を覗けるばかりでなく、テニスンの詩の引用があり、実生活で使えそうな心理テストも披露される。しかしそれらはたんに断片的知識をちりばめたのではなく、どれもが人物の心理と深く結びついている。

 一つの消防署を中心に、そこに勤める消防士たちの約十年にわたる人間関係が描かれる。恋人、親子、上司と部下、仲間……。そこで悩みの生じないはずはない。われわれは消防士をついつい「救う人」と決めつけがちだが、彼らもまた救われることを切に必要としているのだ。巧みな手法と豊かな蘊蓄とが、複雑な人間関係と心理の綾をより鮮やかに浮かび上がらせ、たんなるミステリーを超えた味わいを生み出している。

ながおかひろき/1969年、山形県生まれ。作家。筑波大学卒業。2003年「真夏の車輪」で小説推理新人賞を受賞し、05年『陽だまりの偽り』でデビュー。著書に『教場』『赤い刻印』『血縁』など。

いとううじたか/1968年、千葉県出身。明治大学大学院文学研究科准教授。著書に『奇跡の教室』『美の日本』など。

119

長岡 弘樹

文藝春秋

2019年6月7日 発売