2つあるエレベーターの右側に一人で乗るとおかしな声が聞こえる……。作家、社会学者の鈴木涼美さんが、歌舞伎町の雑居ビル「R」について実際に見聞きした「怖い話」です。

「好きで好きで仕方なかった」と男を刺したり、コインロッカーに乳児が放棄されていたり、ホストクラブがひしめくビルから飛び降りたり、風俗店の入ったビルが燃え上がったり、そういう三面記事的な事件が頻発する街であっても、日常は意外と平坦なものだし、夜になれば今でも、かつてほど多くはないが相当数の、それほど絶望しているわけでもないがそれほど現状に満足しているわけでもない、醜くもないが美しくもない人たちが集まる。私のようなある種の人々がどうしてか引き込まれ、なかなか抜け出せなくなる魅力はあるものの、時々無性に逃げ出したくなるような不気味さもある。

Rというビルの「不穏かつ不名誉な噂」

 街の中心から少し西側に歩いたところにあるRというビルの名前を、街に出入りする多くの人が一度か二度は聞いたことがあるはずだ。殺人事件があったらしい、2つあるエレベーターの右側に一人で乗るとおかしな声が聞こえるらしい、密集する雑居ビルの中でも屋上や非常階段からの飛び降り自殺者の数が群を抜いているらしい、などと、不穏かつ不名誉な噂を伴って。

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 私自身、そのビルから女性が飛び降りた事件を少なくとも2件は知っている。1度目は5年以上前、知人のキャバクラ店社員が、かつて同店で働いていていつの間にか店を辞めていた女が昨晩飛び降りたと教えてくれた。2度目はつい数年前、ホストクラブの系列のバーによく顔を出していたらしい10代の女性が飛び降りたと聞いた。

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 そんな話を聞いた直後は、必要がなくともあえて遠回りをしてビルのある角を通ってみたくなるのだけど、その頃にはやはり事件の断片は、通りすがっただけでは何一つ見つけられない程度には片付いている。片付いていて、なおかつ一度もストップしなかったであろう日常が続いていて、私は人が飛び降りることより、誰かにとっては高い場所から飛び降りるほど嫌な日常が、他の誰かによって終わることなく続けられていくことの方がよっぽど不気味に思うのだけど、かと言って誰か一人が命を張ったところで何かが止まるなんてありえないことも知っている。そんな世界だからこそ、飛び降りる恐怖くらい、なんてことないと感じられるのだろうし。