曰く「砂利疑獄」「板舟疑獄」「ガス疑獄」等疑獄に明け疑獄に暮れた「伏魔殿」東京都の仮面を剥ぐ。筆者は当時の朝日市政記者。

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「東京都大疑獄事件」(解説を読む)

パトロンの睨みで昇進する都会議員たち

 東京都程、情実の盛んな所はない。小さな情実が大きな情実を生み汚職事件に発展してゆくのは今に限ったことではない。

 周期的に起る東京都の疑獄事件の中、その代表格ともいうべきものが大正9年11月から検挙に着手したガス、砂利、道路疑獄である。大正10年10月11日から公判が開始されたが、起訴された者は官吏、公吏、代議士、市会議員、実業家など全部で70人、特に公判の時東京地裁は控訴院の大法廷を使用せねばならなかったほどであった。

昭和の疑獄事件「ロッキード事件」東京地裁前 ©文藝春秋

 大正9年11月、先ず市参事会議員で衆議院議員を兼ねていた高橋義信氏の出頭を求めたが病気のため出頭出来ないというので、特に臨床訊問を行い、確証を得た。その前に業者2,3の検挙はあったが、当時世論は、「呑舟の魚を逃がすな」との声が高かったのに応じてか、いきなり巨魁の検挙ということになったものらしい。当時の新聞記事を見ると、警視庁は「特に司法省用の自動車を借りて八方に飛び」と書いている。当時は自動車を使って飛び回ることは余程の大事件に限られていたのであろう。当時高橋氏は57歳、下谷区議から東京市議となり更に代議士となり東京市会には隠然たる勢力を持ち、道路局や用地課などは高橋の思いのままになったといわれ、下谷西町に住んでいたが、西山御殿と通称され、「西山詣での吏員達で賑わった」と新聞は誇張しているが、それほどでなくとも高橋系の吏員達は昇進が早かったことは事実らしい。

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 この傾向は、東京都になってからも続き最近はやめたそうであるが、東京都の役人の履歴書にはちゃんと、パトロンの名前が書き込まれてあった。A系、B系と都会議員の名が書き込まれてあって、人事異動をやる時の重大な参考にしたものだという。昔はひどかったものらしい。どんな凡くらでもパトロンの睨みによって昇進が左右されていたのである。

砂利、道路工事で私腹を肥やす市議たち

 砂利の不正納入から続いて道路工事の不正も摘発されるに至った。東京都の道路は現在はかなりよくなったが、30年前の道路はひどかった。道路でどじょうを漁ったという一口噺さえあるほどで、表通りは一応舖装されているが、一歩裏町へ出ると、田植が出来そうな泥濘は珍しくなかった。

 当時道路舖装用としては木塊歴青コンクリート、アスファルト、石塊が主であったが、道路行政に市民が何にも知らないことを奇貨として、予算通りに帳簿の上では工事していることになっていても、実際は工事の距離を縮めたり、低質の材料を使ったり、ごまかしはいくらでも利いた。現在、道路は道路部直営でやっているが、当時は市営と請負制度とがあった。間もなく道路局の係長と4名の道路局員が検挙されて事件は日増しに拡大して行った。

©iStock.com

 砂利納入についても、不正が行われていた事が判ったが、砂利は素人では坪数の正確さはわからないので、いくらでもごまかしが利いたのである。当時の市長田尻稲次郎氏は元会計検査院長で学者肌、飄逸な人格者であったが、市疑獄事件の感想を聞かれてこう語っている。

「事件の性質はよくわからないが、伝えられる通りだとすれば怪しからぬ事だ。今までの事件の進行を見ると小さなものだけ検挙されて大きなところはいつでも免れている。鯨を逃さないようにしたいものだ。今は鰯のような者だけだが」

 と、多分に弥次馬的、なことを言っている。当時警視庁の刑事課長が正力松太郎氏だったが、「市長がひと事のように言うのは怪しからぬ」とカンカンに怒ったそうである。

 大正9年11月中に道路局道路課呉服橋出張所主任が拘引され、続いて東京道路株式会社専務本田周一が検挙された。此の本田専務は有楽橋畔に砂利置場を作り、「東京市道路課派出所」の看板で長年罷り通っていた。

 田尻市長は大正9年11月26日、辞表を出して、さっさと自宅に帰ってしまった。「苟しくも東京市という大きな台所から、10人や15人の不心得者を出したからとて、その度に市長が辞めていては市長になりてはなくなる」との批判もあったが、田尻市長は、「梨下に冠を正さすというが、犯罪嫌疑で引っぱられる吏員のあることは、市長の眼の届かなかった為めである。ふし穴同然の眼力しかない者はさっさとその職を去るべきのみである」

 と言って一切の慰留に従わなかった。

 この退陣の鮮やかさは、現在の都知事たる安井誠一郎氏のいい参考になると思う。