相次ぐ検挙 市議が定員3分の2以下の異常事態へ
間もなく昭和3年8月板舟権をめぐる疑獄事件の検挙が始まると、その男は真先に挙げられた。
京成電車の市内乗入れについてもとかくの噂はあったが、検挙の手はこれにも伸び、市営バスの購入についても、市会の一部から当時の市電気局自動車課長に働きかけがあってこれも疑獄事件にまで発展し、江東青物市場使用料問題から検挙の手が延び、市のやっている仕事はどこをつついても膿が出ると評されたものだ。
代議士瀬川光行や同じく中島守利、三木武吉氏も起訴されたが、東京市会では25人という市会議員(定員88人)が収容され、外に6人の欠員があったため、合計31人が欠け、市会は常に3分の2以下の議員で開かざるを得なくなり、全くその機能を喪失した。
議員の欠員に対しては補欠選挙を行い、これを補充出来るのであるが、留置中の議員は依然として資格を有するのでいかんともなし得ない。6人の補欠選挙を行ったとしても開会毎に定員の3分の1の欠席を余儀なくされている。
「東京市会の解散を命ず」
世論は東京市会を解散すべしとの声がだんだん高くなって来た。これを代表したのが市の元老格ともいうべきで当時まだかくしゃくとしていた後藤新平氏と阪谷芳郎氏の2人である。2人とも元東京市長であり第一級の大物であったが、此の2人が相携えて11月30日首相官邸に田中義一首相と内務大臣望月圭介氏を訪れ市会解散の意見書を提出した。
望月内相は昭和3年12月21日平塚広義東京府知事を招いて協議した後、
「市政第162条により東京市会の解散を命ず」という解散命令を平塚府知事に交付した。
市会解散の命令書は東京府を通じて市側に伝達された。私はすぐに上野自治会館に市来市長を訪うたが、市来市長は少しも騒がす、市会解散などどこの国の出来事かといった風情であった。
「市会解散の命令があったそうですが……」
と訊ねると、
「その事は電話で知りました。」
と表情一つ変えない。流石に一かどのサムライだナと感心したものである。
しかし市来市長が真に政治家であるならば市会解散前に辞職すべきチャンスは摑み得た筈であった。市会解散の命令が下った時も辞職すべきいいチャンスであった。それを見過して、市来市長は翌昭和4年2月5日辞表を出した。東京市の財政計画を確立してからとの自負があったものらしいが、どうせ市長が変ったら計画はやり直しにきまっていたのである。
裁判とは恐ろしく長くかかるもので、この控訴判決が昭和7年12月20日にあった。
代議士三木武吉氏が懲役3月、中島守利同5月、正力松太郎氏が2月(執行猶予2年)などで、前代議士小俣政一外3名は無罪となった。