ガス会社が大金をバラまいた「ガス問題」
大正9年の11月27日、市会は後任市長選挙を行った結果、後藤新平氏が当選した。
後藤氏も意外だった。訪問の新聞記者に後藤氏は、「私の如き者の出る幕ではない。絶対に受諾しないよ」と語り固辞して受けようとしない。
その日から市会各派の委員は麻布の後藤邸に日参した。最後に渋沢栄一翁までやって来て、後藤氏の承諾を求めた。財界の長老として尊敬されている渋沢翁の勧告には流石の後藤氏も断わり切れなくなって、9年12月15日に承諾した。後藤氏は「仕事は市長自ら采配をふるうまでもなく、助役が中心になってやるものだ」と、後藤氏の信頼していた永田秀次郎、池田清、前田多門三氏を引っぱって来た。三田助役(三人とも田がついていたので)は、市の施設改革を最も堅実にやって業蹟を残した名助役ぶりだった。
市会も後藤市長は大物だからと年俸2万5000円を出した。田尻前市長は1万5000円であったのである。
東京市疑獄事件はガス会社専務磯部保次氏の召喚留置で、ガス問題にも火がついた。
ガス問題というのはガス会社が九分の配当を続けるためにはガス料金の値上をせねばならぬ。ガス会社と東京市との間には報償契約があってガスの値上げは市会の承認を得なければならない。そこで大正7年6月、東京市会議員の改選のあったのを機会に、ガス会社に有利な議案に賛成することを条件として、市議候補者中の有力な者へ選挙費用を支出した。
この選挙の後東京市会の公和会の幹部たる辰沢延次郎氏にガス会社から懇請して、議員の説得方を依頼した。ガス会社の市議にばら巻いた金は39万円に上ったそうである。
此のガスの臭いは大正7年当時からにおっていただけに、検挙となると火の手は早くいもづる式に次々に挙げられガス会社社長の久米良作氏にまで及んだ。
大正10年6月8日には内務大臣床次竹二郎の名を以て、市政紊乱に関し東京市長後藤新平に対する警告が発せられた。
此の大疑獄事件の公判は大正10年10月11日にその第1回が開かれたが、被告の一人は「こうまで社会的制裁がひどいとは思わなかった。社会から葬られた上に、法の制裁まで受けるのだからね」
と新聞記者に語っている。此の公判は被告が70名で弁護士が86名という大公判になった。
この地方裁判所の判決が大正11年3月30日大審院の大法廷で下ったが、被告高橋義信氏が懲役2年、追徴金は6万3750円であった。磯部保次、辰沢延次郎、久米良作、根岸治右衛門など、それぞれ1年6カ月から6カ月の懲役の判決があり、無罪となったのはたった2人で、68名が懲役又は罰金に処された。
市民も愛想をつかし冷淡に 筋が通らない「板舟権疑獄」
昭和3年夏から秋にかけて板舟権疑獄が起った。板舟権というのは大震災により、魚市場が日本橋河岸から現在の築地にかわった時に、移転に附帯して起った旧営業権の補償案で昭和3年3月30日の市会で、「70万円を補償支払うべし」との修正案が市会で可決された。
それまで、旧魚市場営業者は新しい築地魚河岸で営業を継続しているのだから、何ら補償の必要はないという正論も市会内部にあり板舟権という権利は実質的に存在するものではないとして猛然に反対した市会議員もあったが、市民はもう東京市会に愛想をつかしたのか、極めて冷淡であった。もし市民が起上って反対運動を起せばこのような筋の通らぬ案は押し潰してしまうはずの案だった。
市会各派とも党内の意見をまとめることが出来ず、自由問題とせざるを得なかったところに、魚河岸筋の策動がいかに各派に及んでいたかをうかがうことが出来る。しかも採決に当り記名投票を主張したのに対し、無記名投票を可とする者が多数であったことから見ても此の案の暗い面を物語るものであろう。
投票の結果は42票対40票という際どいところで可決された。
その頃、魚河岸から「板舟権を通すために」市会に打って出たという威勢のいい中老の市会議員があったが、その男が当時市政を担当していた私の所へ来て、
「朝日は何故板舟権補償に反対しつづけるのか」というから、私は、
「あれは闇の案だよ。真昼間出される案ではない」というと
「まあかたわになるのが嫌なら少し加減することだネ」と恫喝したことがある。