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”全裸監督”村西とおるを襲った「女房を寝取られた男にしかわからない恥辱」

ドラマ「全裸監督」で描かれなかった昭和AV伝 7000字ロングインタビュー#1

source : 週刊文春デジタル

genre : エンタメ, ライフスタイル, 映画

黒木香と300万円の“太平洋横断”

――電話でイタす、ということですか。

村西 そうですよ、よくご存知ですね~。当時は(AV女優の)黒木香さんと恋愛関係にありましたから、毎日のように電話して、「もう少し激しくしてごらん」と私が優しく濃厚に囁くと、「監督さんはどんな風になさっているんですか」なんて聞かれたりしてね。電話代は月に200万円とか300万円。太平洋をまたいでテレフォンセックスした回数で言えば、私は日本の記録保持者じゃないかな。辛い刑務所生活でそれが唯一の救いでしたよ。

――エロスに救われたわけですね。

村西 そりゃあそうですよ。エロティシズムを皆さんどうお考えかわかりませんけれど、人間に与えられた唯一の救いです。エロスの根本は生と死です。生(性)の希望と死の絶望、この心の揺らぎがエロスなんです。性愛の世界の興奮、感動、エクスタシーをエロティシズムと言いますけれども、それは死の絶望、無の世界があってこそ存在します。だから米国での辛い環境だからこそ、燃え滾るものがあったのです。

©文藝春秋

――他にも何回か警察沙汰になったエピソードが紹介されています。

村西 なんせ私は前科7犯でございますからね。「横浜ベイブリッジの女」という作品がありましてね。横浜ベイブリッジを“駅弁”しながら横断したんですよ。そうしたらすぐ神奈川県議会で「神奈川県名物を汚すとは何事か!」と糾弾されて、県警の本部長から呼び出しをくらいました。結局発売中止になりましたけれども。だから何をやるかわからないんですよね。

白ブリーフ姿が定着したきっかけ

――白ブリーフ姿も村西監督の“得体の知れなさ”に一役かっていたように思います。

村西 うちの親父がいつも白いふんどしをしていましてね。なぜかというと、交通事故に遭って救急車で病院に運ばれても恥ずかしくないように、真っ白なふんどしを毎日替えていると言うんです。私にも「お前も下着だけはきちっとしておけよ」と常々言っていまして、それで白ブリーフをはくようになったんですよ。

――何枚くらい持っていたのですか?

村西 仕事だけでなくプライベートでもはいていたので、何枚も持っておりました。現場にも必ず2、3枚は持っていっていましたね。実は私、いぼ痔でね、すぐに汚してしまうんですよ。

――それは大変ですね。

村西 そう。だから結構な枚数を持っていないといけないわけです。今は黒とか紺とか、みなさんと同じようなものを穿いております。ようやく落ち着きました。でも、いざそういうご要望があれば、穿いていきますよ!

 私の作品では白ブリーフを脱ぐシーンがひとつの山場になっていましたけれど、私の前の世代、日活ロマンポルノの時代には考えられなかったのです。